【明智光秀】裏切りの本性と織田信長の野望との関係は何だったのか

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【明智光秀】裏切りの本性と織田信長の野望との関係は何だったのか

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信長の野望と言えば、天下統一。目前まで迫っていましたが成し遂げることは出来ませんでした。阻んだのは、主君である織田信長を倒して天下を狙った武将として有名な明智光秀です。しかし、なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切ったのでしょうか。その関係性や明智光秀の本性とはどのようなものだったのでしょうか。今回の「TimeMachineMuseum」では、裏切り、インポスターの代名詞である明智光秀に注目します。


「明智光秀のプロフィール」

  • 出身地:美濃、現在の岐阜県
  • 生年月日:1528年
  • 死亡年月日:1582年6月13日
  • 享年:55歳 戦死
  • 運命の戦い:本能寺の変

「幼少期は明らかにされていない明智光秀」

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明智光秀は、美濃国、現在の岐阜県の名門、土岐市の出身です。かなり生誕から青年期まで諸説あるようですが、1556年の長良川の戦いが勃発するまでは、土岐氏に代わって美濃国の当主となっていた斎藤道三に仕えていたと言うことです。そして、その後に明智光秀は、越前国の朝倉義景を頼って10年間仕え、長崎称念寺門前に居住していたということです。


「織田信長の家臣となって勢力を拡大し信頼が裏切りに代わる」

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1568年7月17日、朝倉義景に仕えていた時、足利義昭を織田信長に紹介した時、織田信長の家臣となります。そして、10月16日の足利義昭の上洛に加わっています。

1569年1月21日、本圀寺の変が起きます。三好三人衆である、三好長逸、三好宗渭、石成友通たちが六条本国寺に籠っていた室町幕府15代将軍の足利義昭を襲撃。この戦いに明智光秀はも足利義昭側で参戦しています。

1570年6月1日の金ヶ崎の戦いが勃発。この戦いで織田信長は浅井長政の裏切りによって窮地に陥ります。織田信長は撤退を余儀なくされますが、この際に池田勝正の隊3000人隊を主力として、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と明智光秀は殿を務めて織田信長を逃がすことに成功しています。

1570年6月、足利義昭から所領として山城国久世荘(現在の京都市南区久世)を与えられています。

1570年6月28日には、姉川の戦いに参戦しています。9月には志賀の陣にも参戦。

1571年は、三好三人衆の四国からの攻め登り、石山本願寺が侵攻すると、織田信長、足利義昭に従軍して摂津国に出陣。9月12日には、比叡山焼き討ちで中心実行部隊となり、武功を挙げて近江国(現在の滋賀県)を与えられて坂本城の築城を行っています。そして、この時に織田家の家臣に編入されているようです。

1573年2月~7月、足利義昭が挙兵を繰り返し、織田信長が追放する。このことによって室町幕府は滅亡。そして、この年に坂本城が完成。

1575年7月、明智光秀は織田方の重臣となっています。そして、この年には高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆との戦いに参戦。

1576年4月には石山本願寺との天王寺の戦いに出陣。しかし、天王寺砦に侵攻され窮地となったところを織田信長の援軍で窮地に一生を得ています。

1577年1月からは亀山城の建設を始めています。さらにこの年に明智光秀の三女の玉子(洗礼名:ガラシャ)が主君である織田信長の構想に基づく命令で細川忠興と勝龍寺城で結婚します。

1581年7月2日に、織田家に存在していなかった軍法を明智光秀は、家法として定めた明智家法後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様のご奉行を忘れてはならない」という織田信長への感謝の文を書いています。織田信長に対する崇敬の念は強いものでした。

1582年3月28日、甲州征伐では織田信長に従軍しています。


「運命の戦いとなった本能寺の変」

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1582年5月に明智光秀は任務を解かれて、羽柴秀吉の毛利征伐の支援の命を受けます。そして、6月21日早朝に出陣。しかし、亀山城内か柴野付近で明智光秀は、重臣たちに織田信長の討伐のことを告げたようです。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智光秀の明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と述べて京都へ向かったということです。また雑兵は信長討伐については知らされることはなく、本城も信長の命令で徳川家康を討つものと思っていたとされています。光秀の軍は、織田信長が宿泊していた京都の本能寺を奇襲し包囲。明智軍は13000人、しかし、織田信長は近習の約100人ほどでしか守備をしていませんでした。それゆえに織田信長は奮戦むなしく本能寺に火を放ち、自害したとされています。しかし、織田信長の死体は発見されませんでした。


「明智光秀の最期・山崎の戦い」

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山崎の戦い(天王山の戦い)・1582年

「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍」

戦力:20,000~40,000

武将:羽柴秀吉(羽柴秀長、黒田孝高、20,000)、織田信孝(4,000)、池田恒興(5,000)、丹波長秀(3,000)、高山右近(2,000)、中川清秀(2,500)

「明智光秀の軍」

戦力:10,000~16,000

武将:明智光秀(5,000)、斎藤利三(2,000)、伊勢貞興(諏訪盛直、御牧兼顕、2,000)、松田政近(並河易家、2,000)、阿閉貞征(溝尾茂朝、3,000)、小川祐忠利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。

12日ごろ、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣します。羽柴軍は高山右近の隊、中川清秀の隊が山崎の集落を占拠して最前線に着陣します。そして、池田恒興の隊が右翼、羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の隊が天王山の山裾の旧西国街道に沿った形で布陣。秀吉の本陣は後方の宝積寺に陣取ります。

この羽柴軍の布陣に対して明智軍は、御坊塚に明智光秀の本陣、その前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。これは、大軍が山崎の天王山と沼の間の狭い空間を抜けるためには、限られた場所しかなく、その出口を塞ぐ形の陣形となっていました。

翌日の13日16時ごろに事態は動きます。天王山の山裾を横切って高山右近の隊の横に陣を取ろうとして移動していた中川清秀の隊に対して斎藤利三の隊の右側に布陣していた伊勢貞興の隊が攻撃。これに加えて、斎藤利三の隊も高山右近の隊を攻撃し、山崎の戦いの戦闘が開始します。高山右近、中川清秀の両隊は劣勢となる中、秀吉の本隊から送られてきた堀秀政の手勢が窮地を救います。天王山の山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の部隊は前方に展開し、高山右近、中川清秀の両隊の側面を突こうと天王山の中腹を進撃してきた松田政近、並河易家の両隊を交戦します。

その後、淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰の両隊が円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。この攻撃によって津田信春の隊に混乱が生じます。さらに織田信孝、丹波長秀の隊が右翼から一斉に明智光秀の本隊の側面を突く形で攻撃。この状況の中、苦戦を強いられていた高山右近、中川清秀の両隊も斎藤利三、伊勢貞興の両隊を押し返し、動揺が広がった明智軍は総崩れとなったのでした。この頃、御牧兼顕は「我討死の間に引き拾え」と明智光秀に使者を送ります。そしてその後、羽柴軍に壊滅させられます。明智光秀は戦線の後方の勝龍寺城に退却。しかし、主力となっていた斎藤利三の隊が壊走して戦線離脱します。また殿をした伊勢貞興、黒田孝高と交戦していた松田政近が討死にします。こうして明智軍は大きな打撃を受けたのでした。その数は700余りにまで減衰していました。

こうした戦況となり、明智光秀は勝龍寺城の北門から脱出し居城の坂本城を目指します。しかし、小栗栖の藪(現在の京都市伏見区、明智藪)で農民の落ち武者狩りに遭遇し竹槍で刺されて殺害された(その場は凌いだものの力尽きて家臣の介錯によって自害したともされている)とされています。

6月14日に明智光秀の首は羽柴軍に届き、京都の本能寺で晒されました。

そして、羽柴秀吉は勝龍寺城に入り、堀秀政を近江への交通路遮断、明智光秀の捜索に派遣。打出の浜で明智秀満の軍を撃破。さらに坂本城で明智秀満は、溝尾茂朝、明智光忠と自刃します。高山右近、中川清秀の両隊は丹波亀山城に向かい、明智氏を滅ぼします。

6月16日になると羽柴軍は、長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎片家などを降伏または逃亡によって近江を平定します。

6月17日、斎藤利三が生け捕りにされ六条河原で処刑されました。

こうして山崎の戦い(天王山の戦い)は、羽柴軍が勝利します。そして、清州会議で織田信長の後継者としての地位を固め天下統一の道を歩み始めるのです。

7月19日の清州会議の後、最後の明智光秀方の将である武田元明が丹波長秀に攻められて自刃、京極高次は竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏。


「有能な武将だった明智光秀の本性とは」

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明智光秀は、合戦でも、手柄を立て、調停や寺院との話し合いも上手にこなしたので、織田信長にとってなくてはならない存在となっていきました。しかし、1582年に京都の本能寺において明智光秀は織田信長を襲って、自殺させると自らが天下統一に名乗りを上げるという本性をあらわにしました。この知らせを聞いて、豊臣秀吉が中国地方から駆けつけ明智光秀は、山崎、現在の京都府で豊臣秀吉を迎え打とうとしたが、この山崎の戦いで大敗し、戦場から逃げる途中で農民に竹槍で刺されて死ぬことになったのでした。実のところ明智光秀が本能寺の変を起こした理由は現在もわかっていない。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、明智光秀の性格を裏切りや秘密の介護を好むと書いています。明智光秀は、策略を巡らすのが得意で、織田信長を倒すチャンスを密かに狙っていたのかもしれません。

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