【朝倉義景】小笠原流弓術の達人であり越前の芸術家は文武両道武将

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【朝倉義景】小笠原流弓術の達人であり越前の芸術家は文武両道武将

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戦国武将として弓術は小笠原流の達人で戦だけでなく文芸にも通じていた越前国の朝倉義景。その文芸は歌道、和歌、連歌、猿楽、作庭、絵画、茶道など多趣味であり、多くの文芸を極めていたということです。朝倉義景の治世では越前は周辺諸国に比べると安定、平和を極め栄華していました。そのような文武両道の武将である朝倉義景は時代が急変し最後を迎えることになりました。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、朝倉義景に注目します。


「16歳で当主となった朝倉義景の幼少期の記録とは」

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朝倉義景は、1533年9月24日に越前国の朝倉孝景の長男として生まれています。そして、幼名は長夜叉。実のところ幼少期については不明とされており逸話も記録としては残っていないということです。1548年3月に朝倉孝景が死去し、朝倉義景は16歳にして第11代の当主となっています。この時に延景と名乗っています。そして、1548年9月9日に京都に代替わりのあいさつを行いました。しかし、政務や軍事に関しては1555年まで従曾祖父の朝倉宗滴が補佐していました。そして、1555年のうちに朝倉宗滴が死去し政務と軍務を執るようになりました。


「実質の当主となり若狭国に侵攻し武田軍と何度も交戦」

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1552年6月16日、室町幕府の第13代将軍の足利義輝から「義」の字を与えられて、義景と改名しています。さらに左衛門督に任官されていますが、足利義輝から「義」の字が与えられていることから一等官であることが示されています。その後、1559年11月9日には、従四位下に叙任されています。

1563年8月になると、若狭国の栗屋勝久へ侵攻。この頃の若狭国は守護である武田義統は家臣を統率できておらず、謀反が起こっていました。このために朝倉義景は若狭国の栗屋勝久を攻撃するために出兵を繰り返しています。

1564年9月1日、朝倉義景は、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将として朝倉軍は加賀国に侵攻。9月12日には、朝倉義景も出陣して本折・小松を落としています。その後、9月18日に御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進軍。そして9月25日に一乗谷に帰陣しています。


「怪しい足利義昭との関係」

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1565年5月19日に足利義輝が三好義継に殺害されるという事件が起こっています。この件について朝倉義景は5月20日に武田義統の書状で知ることになります。7月28日、足利義輝の弟である足利義昭は、朝倉義景の画策によって幽閉先だった奈良から脱出。9月8日になると朝倉義景が足利義昭を歓迎したために朝倉家の後援を期待して朝倉・加賀一向一揆の和睦を足利義昭が求めましたが失敗。

1567年3月、朝倉義景の家臣である堀江景忠が加賀一向一揆と通じて謀反を画策。朝倉義景は加賀国の杉浦玄任が率いる一揆軍と戦闘することになります。そして山崎吉家・魚住景固に堀江家に攻撃を命じます。堀江景忠は抗戦するものの、朝倉義景と和睦。その後、加賀国を経て能登国に没落しています。

1567年11月21日、足利義昭を一乗谷の安養寺に迎え入れています。そして12月に加賀一向一揆との和解が成立。これは織田信長の仲介によるものが大きいとされています。その後、足利義昭は朝倉義景に上洛戦を求めるものの実現しなかったために滞在中の礼を厚く謝する御内緒を残し越前国から去っていきました。

1568年6月に突然、朝倉義景の嫡男である阿君丸が急死。


「織田信長との攻防が激化し朝倉義景の運命の一乗谷の戦いが始まる」

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1568年8月に若狭国の守護である武田氏の内紛が生じます。これに朝倉義景は介入して当主である武田元明を保護するという名目で小浜から連れ去り、越前一乗谷に軟禁し若狭国を支配下に置きます。しかし、完全に平定したわけではなく栗屋勝久や熊谷氏など朝倉義景に抵抗もありました。

1568年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛します。そして足利義昭を将軍として朝倉義景に対して上洛を2度命じています。しかし、朝倉義景が拒否。

1573年8月8日になると、織田信長が30,000の軍を率いて近江国に侵攻します。これに対して朝倉義景も出陣の準備をしますが、家臣からの信頼が弱くなっており、重鎮の朝倉景鏡、魚住景固が出陣命令を拒否。このために朝倉義景は、山崎吉家、河合宗清たちを招集して20,000の軍で出陣します。8月12日に織田信長が暴風雨を利用して奇襲攻撃をかけて大嶽砦を攻めたために砦は落とされてしまいます。8月13日には丁野山砦が落とされてしまいます。このために朝倉義景は浅井長政と連携を取ることができなくなります。そのため朝倉義景は越前国に撤兵を決断。しかし、織田信長が撤兵することを読まれていたために織田信長の軍から追撃を受けてしまいます。この田部山の戦いで朝倉義景の軍は敗退し、柳瀬に逃走することになりました。しかも織田信長の追撃は厳しいもので撤退途中に刀根坂で織田信長の軍に追い付かれてしまいます。その被害は大きく、朝倉義景は疋田城に逃げ込みます。さらに斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延などの武将が戦死してしまいます。しかも、朝倉義景は疋田城から逃走し一乗谷に向かっていきます。この間に将兵の逃亡も相次ぎます。残った将兵は鳥居景近、高橋景業など10人程度の側近のみとなってしまいます。

8月15日に朝倉義景は一乗谷に帰還しますが、朝倉軍の壊滅を知った一乗谷の将兵の大半が逃走しておりいなくなっていました。朝倉義景が出陣命令を出しても朝倉景鏡以外は出陣さえ来ない状況となっていたということです。このために朝倉義景は自刃しようとしますが、鳥居景近、高橋景業に止められ延命。

8月16日になると朝倉義景は、朝倉景鏡の助言に従って一乗谷を放棄し越前大野の洞雲寺に逃れます。

8月17日に平泉寺の僧兵に援軍を要請するも織田信長の調略を受けていたために平泉寺は朝倉義景の要請には応じず、逆に洞雲寺を奇襲。

8月18日は、織田信長の軍が柴田勝家を先鋒隊として一乗谷に侵攻し居館や神社仏閣を放火し焼き払います。

8月19日に朝倉義景は、織田信長の軍の進軍など朝倉景鏡から防備に不安があると告げられ、賢松寺に逃げ込みます。

8月20日早朝、織田信長と通じた朝倉景鏡が裏切り、賢松寺を200騎で襲撃。これによって朝倉義景は自刃し最期を迎えた。享年41。その後、朝倉義景の首は織田信長の家臣である長谷川宗仁によって京都で獄門に晒されました。こうして、朝倉義景の死によって朝倉氏の戦国大名としての血族は滅亡しています。


「朝倉義景の重大な戦とは」

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金ヶ崎の戦い:1570年
金ヶ崎城、現在の福井県で織田信長が朝倉義景に攻撃することによって開戦。同盟関係だった織田信長の妹・お市の方と結婚した小谷城の浅井長政が織田信長を裏切る。朝倉義景と浅井長政は、織田信長を挟んだ形、挟撃します。しかし、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と織田信長の同盟軍の徳川家康が後衛となって、織田信長の本隊を逃がしてしまいます。しかも金ケ崎城は、5月30には織田信長の降伏勧告を朝倉景恒が受け入れ、城は落とされており、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が入った。織田信長の撤退時には隙がなく被害を与えることは少なかった。


姉川の戦い:1570年7月30日

近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町)で織田信長と徳川家康の連合軍に対して、浅井長政と朝倉義景の連合軍が交戦した合戦です。金ヶ崎の戦いで難を逃れた織田信長は、京に退避しており5月9日には軍を立て直し岐阜に進軍します。

5月11日、朝倉軍と浅井軍の連合軍は南近江に進軍し六角義賢と連携して織田信長の挟撃を図ります。しかし、連携がうまくいきません。その間に5月21日、織田信長の軍は岐阜へ帰国。

一方の六角義賢の軍は6月4日に野州河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗北。そのために浅井・朝倉の連合軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火し、国境の長比などの城砦を修築して織田信長の軍の侵攻に備えていました。6月15日に朝倉軍は越前に帰陣しますが、前後して長比城に配置されていた堀秀村、樋口直房が調略によって織田信長に降り長比城は陥落。これによって織田信長は6月19日に長比城に入城しています。

6月21日になると織田信長は虎御前山に布陣し小谷城の城下町を焼き払わせるように命令。

6月22日、織田信長は殿軍として築田広正、中条家忠、佐々成政たちに鉄砲隊500、弓兵30を率いて後退しています。

6月24日、今度は小谷城の姉川を隔てて南にある横山城を包囲。織田信長と合流した徳川家康は竜が鼻に布陣します。これに対して浅井軍に朝倉義景の8000の援軍が到着。そして、大依山に布陣。さらに浅井長政の5000の兵が加わり13000が連合軍の勢力。

6月27日に浅井軍・朝倉軍の連合軍は陣払いをして、6月28日に姉川の前に軍を二手に分けて野村、三田村のそれぞれの地域に布陣。徳川軍は三田村地域へ織田軍は野村地域へ向かいます。

6月28日の午前6時に開戦。激戦となったものの、浅井軍と朝倉軍の連合の陣形が伸びきっているのを見た徳川家康が徳川四天王の榊原康政に命じて浅井・朝倉連合軍の側面を攻撃するように命令。これによって浅井・朝倉軍の連合軍は総崩れとなりました。浅井・朝倉軍は1100余りが討ち取られるという結果になります。

その後、織田信長は小谷城から50町ほどまでの距離を追撃しています。しかし、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退します。それから横山城は降伏し、織田信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)を城番として横山城に入れています。


志賀の陣:織田信長、追い詰めた、志賀の陣は1570年9月16日~12月17日の織田信長に対する浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦いです。織田信長は比叡山を包囲しますが、各地で織田信長に逆らう勢力が出たため、織田信長は追い詰められ仕方なく浅井長政と仲直り、講和することにします。これが有名な志賀の陣です。結果としては引き分けに終わった戦いです。


「多趣味だった朝倉義景の人物像」

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上述に述べているように朝倉義景の弓術は小笠原流の達人でした。そして戦だけでなく文芸にも通じ、歌道、和歌、連歌、猿楽、作庭、絵画、茶道など多趣味であり、多くの文芸を極めていたということです。とりわけ茶道においては、一乗谷から現在でも多くの茶器が出土しているようです。しかも、出土している茶器は、当時は高価な輸入品で唐物茶碗、青磁花瓶、タイ製の壺、イベリア半島の鉛、イタリアのヴェネツィアで作られたガラス容器などが発見されています。

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