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【足利義昭】織田信長への反逆が室町幕府の滅亡としたしくじり将軍
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日本の時代を築いた室町幕府。その最後は織田信長に逆らった足利義昭が最後の将軍第15代として終焉を迎えます。もともと関係の良かった足利義昭と織田信長。どのような経緯をもって織田信長との対立に至ったのでしょうか。今回の「TimeMachineMuseum」では、室町幕府の最後の将軍である第15代将軍・足利義昭に注目します。
「足利義昭のプロフィール」
- 出身地:山城、現在の京都府
- 生年月日:1537年11月3日
- 死亡年月日:1597年8月28日
- 享年:61歳 病死
- 運命の戦い:槙島城の戦い
「室町幕府の第15代将軍の足利義昭の誕生まで」
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戦国時代、室町幕府の将軍の立場はますます弱くなっていきます。足利義光は第12代将軍足利義晴の次男しかし父は病死、後を継いだ13代将軍兄足利義輝は、松永久秀らに殺され足利義昭も寺院に閉じ込められてしまいます。そこから逃げ出した、足利義昭は、将軍の地位を取り戻そうと越前、現在の福井県の朝倉義景を頼ります。さらに次に頼ったのは織田信長であった。足利義昭は、織田信長の助けを経て、ついに京都へ入り第15代頃町幕府将軍となったのでした。これで権力は自分のもの。そう足利義昭は、喜んだのですが実質的に権力を握ったのは、実際には織田信長の方だったのです。足利義昭は、自分が織田信長に形だけの将軍にさせられたことに気が付きました。そこで、織田信長を討つという思いが、足利義昭を動かします。
「室町幕府の滅亡を招いたきっかけの戦いとは」
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1568年9月に織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任。将軍に対する権力抑制を織田信長が図り始め、足利義昭との対立が深まっていくことになります。
1572年9月、織田信長から異見十七ヶ条を突き付けられて対立は決定的なものとなります。
そして、足利義昭は武田氏、浅井氏、朝倉氏、さらには比叡山延暦寺(現在の滋賀県)、石山本願寺(現在の大阪府)などに呼びかけて、織田信長に対する連合勢力、信長包囲網を築くのです。
1573年7月3日に足利義昭は織田信長に戦いを挑みます。足利義昭は、安全に作戦を立て実行するために難攻不落の槇島城に籠ります。さらに高屋城では三好三人衆と結んだ遊佐信教が畠山昭高を殺害しており実質的に実権を握っています。しかし、織田信長の大軍の前に大敗北を招いてしまいます。これは槙島城の戦いと呼ばれています。この戦いで京都を追い出され室町幕府はここに滅亡してしまいます。その後、織田信長が死ぬと権力は織田信長の家臣、豊臣秀吉に移ることになります。足利義昭は、権力を握ることを諦め、豊臣秀吉の相談相手となります。
「豊臣秀吉を養子として迎えたことの真相は」
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豊臣秀吉は、足利義昭の養子になりたかったのでしょうか
天下を取った豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったので、足利義昭に養子にしてほしいと頼みます。足利義昭はきっぱりと断ったと言う話がこれまで伝わっています。しかしこれは作り話とされています。実際には足利義昭は、豊臣秀吉の側近として使え、相談相手を務めたのです。
「足利義昭の運命の戦いとなった槇島城の戦い」
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1573年7月に織田信長と足利義昭が交戦。
経緯としては室町幕府の第15代将軍となった足利義昭に対して、1572年9月に織田信長が異見十七ヶ条を突き付け、将軍としての権力を抑制してコントロールしようとしました。このことに対して足利義昭が織田信長の対立を深めていくことから槇島城の戦いに繋がっていくことになります。
1573年2月に織田信長に対して挙兵するものの敗退しています。この際に4月、正親町天皇から講和勅令が出されて講和しています。
1573年5月15日、織田信長は足利義昭が再び挙兵した際には瀬田あたりで道を塞ぐと予想し、大軍を輸送するための大船の建造を佐和山で開始。
1573年7月2日、足利義昭が宇治五ヶ庄に移動し槇島城に立てこもる。槇島城は宇治川の島地に建てられた南山城の要害で足利昭光の居城でした。
1573年7月3日に足利義昭が織田信長との講和を破棄し槇島城で挙兵。兵力は3700。
1573年7月5日、織田信長は建造していた大船が完成し、翌日に先陣に琵琶湖を渡らせた。
1573年7月7日には、織田信長も大船で琵琶湖を渡り、坂本に入る。
1573年7月9日、織田信長は京に入り明覚寺に布陣。そして、二条御所を包囲。
1573年7月12日に二条御所が開城となる。
1573年7月16日になると、織田信長は槇島城に向けて進軍を開始。織田軍の兵力は70000の大軍でした。
1573年7月17日に織田信長は五ヶ庄の柳山に布陣しています。目の前を流れる宇治川の水量は多かったものの、織田信長は「引き延ばすようなら自分が先陣を切る」と言い、二手に分かれて川を渡ることを決断。
1573年7月18日の午前10時、織田軍は作戦を決行。二手に分かれて川を渡り、槇島城の南向きに隊列を整えます。槇島城からは足軽が出てくるものの、佐久間信盛、蜂屋頼孝など50ほどの兵で討ち取り、織田軍は完全に槇島城を包囲。その後、織田軍は槇島城を攻撃し、槇島一帯を焼き払います。槇島城の外溝は乗り破られてしまい、火をつけられてしまいます。足利義昭は、このことに恐れをなし織田信長に講和を申し入れました。織田信長は足利義昭の一命は助けたものの、講和の条件として2歳の息子である足利義尋を人質に出させることで降伏を受け入れ、槇島城の戦いは終わります。
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