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【蜂須賀家政】徳川家康の相談役で戦国時代以来の徳川幕府の大長老
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瞬時の判断が生死を分けた戦国時代において、生き続けることは奇跡であり天下を獲った徳川家康は、まさに偉大な人物と言えます。そして、徳川家康の側近には経験豊かで賢明な判断を下すことのできる有能な家臣がいました。その一人が蜂須賀家政です。戦国以来の長老として数々の戦で武功を挙げ、徳川家光の時代まで長きにわたり活躍した武将です。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、蜂須賀家政の生涯に注目します。
「戦国以来の偉大な長老として敬意を表された生涯」
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1558年、蜂須賀正勝の嫡男として、尾張国丹羽郡、現在の愛知県江南市に生まれました。織田信長、羽柴秀吉に仕えて中国地方の毛利元就など毛利攻めの際には、黄母衣衆として従軍しました。
1582年の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉に従軍して山崎の戦いに参戦しました。
1583年には、賤ヶ岳の戦いに参戦。
1585年は、紀州征伐で羽柴秀吉に従軍して武功を挙げました。雑賀衆攻めの後に実行された、四国攻めでは阿波木津城攻め、一宮城攻めに参戦して武功を挙げました。その後、一宮城の城主となり、後に徳島城を築城します。ちなみに一説では、阿波踊りは、徳島城が竣工した折、蜂須賀家政が城下に「城の完全祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥とされています。
1587年には、九州征伐に参戦して、日向高城攻めで武功を挙げました。
1590年、小田原征伐で伊豆韮山城攻めでは、福島正則と共に先鋒を務めて武功を挙げています。
1592年からの朝鮮出兵では、2度の出兵の両方ともに出陣しています。
1597年の南原城の戦い、蔚山村城の戦いでは、救援軍の一端を担って、浅野幸長を助け出すという武功を挙げています。しかしながら、蜂須賀家政らが、十分な追撃を行なわず、さらにその後、黒田長政などの諸大名と連名で本土に戦線縮小案を上申したことで、羽柴秀吉の逆鱗に触れてしまいます。蜂須賀家政は、本土に呼び戻され、処罰されました。
1598年になると豊臣秀吉が死去します。さらに1599年には前田利家が死去。こうしたことがあって、七将襲撃事件が発生。これは、蜂須賀家政が福島正則や加藤清正、浅野幸長らと共に石田三成を襲撃したことです。
1600年、徳川家康による会津征伐に際しては、長男の蜂須賀至鎮を従軍させ蜂須賀家政は大坂城に居残ることにします。これは病気が理由とも新徳川派として留守を守るためとも言われています。石田三成らの反徳川決起後には領国の毛利輝元に向けて西軍参加を諫める書状を送っています。しかしながら、この書状は行き違いとなってしまい、大坂に上り大坂城を占拠した毛利輝元によって蜂須賀家政は逼塞させられてしまいます。蜂須賀家政の領である阿波には毛利軍が進駐し、蜂須賀家政は出家し蓬庵と号して高野山光明院に上っています。軍勢は豊臣家の馬廻に編入されて毛利氏に預けられ、北国口の防衛に2,000ほどの兵が向けられました。しかし、この軍勢は交戦前に関ヶ原の戦いでの西軍の敗北を知り、直接西軍に加担することなく東軍に合流して、徳川家康に同行していた蜂須賀至鎮の指揮下に戻ります。関ヶ原の戦いの本戦で蜂須賀至鎮が東軍として参戦していたために戦後に徳川家康から所領を安堵されました。戦後、家督を蜂須賀至鎮に譲り、隠居しました。
1614年から始まった大坂の陣では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の東関東」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の徳川家康を訪ねて密書を提出しています。冬・夏の大坂の陣で嫡男の蜂須賀至鎮が戦功を挙げて、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7000石に加増されました。この時の慰労のために、蜂須賀家政に下賜されたと享保名物帳に記帳されているのが順慶左文字でした。
1620年に蜂須賀至鎮が夭折した後は、幼くして襲封した嫡孫である蜂須賀忠英の後見を江戸幕府に命じられ、蜂須賀忠英が成人する1629年まで蜂須賀家政が政務を取り仕切り、藩政の基礎を築きました。
1638年12月30日、81歳で亡くなるまで、蜂須賀家政は戦国以来の長老として、第3代将軍である徳川家光の側に御伽衆として出仕することもありました。
「運命の戦いとなった秀吉に従軍した山崎の戦いとは」
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山崎の戦い(天王山の戦い)・1582年
「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍」
戦力:20,000~40,000
武将:羽柴秀吉(羽柴秀長、黒田孝高、20,000)、織田信孝(4,000)、池田恒興(5,000)、丹波長秀(3,000)、高山右近(2,000)、中川清秀(2,500)
「明智光秀の軍」
戦力:10,000~16,000
武将:明智光秀(5,000)、斎藤利三(2,000)、伊勢貞興(諏訪盛直、御牧兼顕、2,000)、松田政近(並河易家、2,000)、阿閉貞征(溝尾茂朝、3,000)、小川祐忠利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。
12日ごろ、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣します。羽柴軍は高山右近の隊、中川清秀の隊が山崎の集落を占拠して最前線に着陣します。そして、池田恒興の隊が右翼、羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の隊が天王山の山裾の旧西国街道に沿った形で布陣。秀吉の本陣は後方の宝積寺に陣取ります。
この羽柴軍の布陣に対して明智軍は、御坊塚に明智光秀の本陣、その前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。これは、大軍が山崎の天王山と沼の間の狭い空間を抜けるためには、限られた場所しかなく、その出口を塞ぐ形の陣形となっていました。
翌日の13日16時ごろに事態は動きます。天王山の山裾を横切って高山右近の隊の横に陣を取ろうとして移動していた中川清秀の隊に対して斎藤利三の隊の右側に布陣していた伊勢貞興の隊が攻撃。これに加えて、斎藤利三の隊も高山右近の隊を攻撃し、山崎の戦いの戦闘が開始します。高山右近、中川清秀の両隊は劣勢となる中、秀吉の本隊から送られてきた堀秀政の手勢が窮地を救います。天王山の山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の部隊は前方に展開し、高山右近、中川清秀の両隊の側面を突こうと天王山の中腹を進撃してきた松田政近、並河易家の両隊を交戦します。
その後、淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰の両隊が円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。この攻撃によって津田信春の隊に混乱が生じます。さらに織田信孝、丹波長秀の隊が右翼から一斉に明智光秀の本隊の側面を突く形で攻撃。この状況の中、苦戦を強いられていた高山右近、中川清秀の両隊も斎藤利三、伊勢貞興の両隊を押し返し、動揺が広がった明智軍は総崩れとなったのでした。この頃、御牧兼顕は「我討死の間に引き拾え」と明智光秀に使者を送ります。そしてその後、羽柴軍に壊滅させられます。明智光秀は戦線の後方の勝龍寺城に退却。しかし、主力となっていた斎藤利三の隊が壊走して戦線離脱します。また殿をした伊勢貞興、黒田孝高と交戦していた松田政近が討死にします。こうして明智軍は大きな打撃を受けたのでした。その数は700余りにまで減衰していました。
こうした戦況となり、明智光秀は勝龍寺城の北門から脱出し居城の坂本城を目指します。しかし、小栗栖の藪(現在の京都市伏見区、明智藪)で農民の落ち武者狩りに遭遇し竹槍で刺されて殺害された(その場は凌いだものの力尽きて家臣の介錯によって自害したともされている)とされています。
6月14日に明智光秀の首は羽柴軍に届き、京都の本能寺で晒されました。
そして、羽柴秀吉は勝龍寺城に入り、堀秀政を近江への交通路遮断、明智光秀の捜索に派遣。打出の浜で明智秀満の軍を撃破。さらに坂本城で明智秀満は、溝尾茂朝、明智光忠と自刃します。高山右近、中川清秀の両隊は丹波亀山城に向かい、明智氏を滅ぼします。
6月16日になると羽柴軍は、長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎片家などを降伏または逃亡によって近江を平定します。
6月17日、斎藤利三が生け捕りにされ六条河原で処刑されました。
こうして山崎の戦い(天王山の戦い)は、羽柴軍が勝利します。そして、清州会議で織田信長の後継者としての地位を固め天下統一の道を歩み始めるのです。
7月19日の清州会議の後、最後の明智光秀方の将である武田元明が丹波長秀に攻められて自刃、京極高次は竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏。
「主君の秀吉が見せた奇跡、賤ヶ岳の戦い」
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1582年、織田信長の跡継ぎをめぐり、会議が開かれた。これは清洲会議と言われる。織田信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と信長の孫である三法師を推す、豊臣秀吉が争った。跡継ぎが三法師に決まると、両者の対立が激しくなり、豊臣秀吉は織田信孝を攻撃して降伏させました。このことに憤った柴田勝家は、賤ヶ岳で、豊臣秀吉に戦いを挑む。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の南側に陣を構えたが降伏したはずの織田信孝が挙兵を起こした。豊臣秀吉が一部の軍を残して岐阜に戻ったすきに、柴田勝家の軍は、豊臣軍を攻めた。このことを予想していた豊臣秀吉は岐阜から52キロの道のりをわずか5時間で引き返し柴田勝家の軍に襲いかかった。さらに前田利家の軍が戦場を離れると柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北ノ庄城へ逃げた。柴田勝家が賤ヶ岳から逃げ戻った、北ノ庄城は、柴田勝家が築いた、巨大な城で天守が高くそびえ立っていた。賤ヶ岳の戦いで勝手に柴田勝家の軍から離れた前田利家は豊臣秀吉と会って味方になっていた。前田利家を加えた数万の豊臣秀吉の軍は、北ノ庄城を攻囲した。豊臣秀吉は、この戦いが終われば、日本は平和になると考え、多くの戦死者が出たとしても、思い切って攻撃することを決意した。こうして、両軍の激しい鉄砲の打ち合いが始まりましたが、柴田勝家は負けることを覚悟していたということです。やがて天守に火がつくと、柴田勝家は、妻と娘たちを逃がそうとしました。妻は、織田信長の妹で、以前は浅井長政の妻だったお市の方です。お市の方は3人の娘を逃した後、私もお供いたします。と柴田勝家に微笑み、2人は燃え盛る炎の中で自ら命を絶ったのでした。
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