
目次
【服部半蔵正成】正体は忍者ではなく鬼半蔵と言われた槍術武将だった
あわせて読みたい記事:【板垣李光人】徳川四天王の赤備えの赤鬼と言われた井伊直政について
あわせて読みたい記事:【森可成】攻めの三佐と言われた武将は和泉守兼定銘の十文字槍の達人
あわせて読みたい記事:【前田利家】イケメン武将は戦国無双の槍の又左と言われた武将伝説
忍者「服部半蔵」の名で知られていますが、本名は正成で三河、現在の愛知県の武将の家に生まれ、16歳頃、同い年の徳川家康に仕えたということです。当時、伊賀、現在の三重県には忍者が多く存在しており、服部半蔵は伊賀忍者のリーダーとされていました。そして、伊賀忍者軍団としてさまざまな戦いに参戦しています。しかし、実のところ服部半蔵正成は、徳川家康に仕えた武将です。徳川家康の午廻、御先手、鉄砲奉行等を務め、徳川家康より伊賀同心の指揮権を預けられた武将だったのです。忍者軍団のリーダー格として認知されている服部半蔵正成は、実際には何者だったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、服部半蔵正成に注目します。
「服部半蔵のプロフィール」
- 出身地:三河、現在の愛知県
- 生年月日:1542年
- 死亡年月日:1596年11月4日
- 享年:55(病死)
- 運命の戦い:本能寺の変
「忍者伝説のルーツとなった生涯」
あわせて読みたい記事:【雑賀孫一】戦国鉄砲隊として無敵の最強兵器を手に織田信長に圧勝
服部半蔵としてよく知られているのは、正成、2代目服部半蔵のことです。服部半蔵正成は、1542年、服部保長の五男、あるいは六男として三河国、伊賀、現在の愛知県岡崎市に生まれました。
1548年6歳の服部半蔵正成は大樹寺に預けられました。幼い頃から力のつよい子供でした。
1551年出家を拒否し、大樹寺から疾走しています。服部半蔵正成は親元へ戻らず、兄たちの援助で暮らしていました。そして、その後7年間、初陣とされる宇土城攻めまでの消息は不明とされています。
1560年の桶狭間の合戦以降、徳川家康が三河統一に着手した時期には、服部半蔵正成は渡辺守綱と並び徳川家臣団の旗本馬廻衆に所属していました。
1563年三河一向一揆の際、服部半蔵正成は一向宗でありましたが、徳川家康の忠誠を誓い、一揆勢を相手に戦いました。
1569年の掛川城攻めでは、渡辺守綱、内藤正成、本多重次、榊原忠政らと共に戦っています。
1570年の姉川の戦いにおいて、服部半蔵正成は一番槍の功名あげた。また偶然出会った浅井の兵数十人に「自分も浅井軍であるから、朝に退却しよう」と偽って討ち取る機会をうかがっていたところ、通り掛かった弟の服部半蔵半助から「その敵を討ち取れ」と声をかけられて怪しまれたため、敵兵の主人と数人を倒して半助に首を取らせました。この戦いでは、服部半蔵正成は、若い将兵の後見も任せられていました。
1572年、三方原の戦いで服部半蔵正成は先手として大須賀康隆の隊に配属され、一番槍の功名あげました。しかし、徳川軍は大敗。退却し、浜松城を目指すことになりました。服部半蔵正成は負傷していましたが、徳川家康の乗馬に追いついた敵と格闘し撃退しました。さらに浜松城へ帰還した際には、城外に一人で引き返し、敵と一騎打ちの末に討ち取った首を手に城内へ戻るという戦功をあげました。
1582年6月本能寺の変によって徳川家康を堺から三河に帰還させる伊賀越えで護衛しています。この本能寺の変によって、天正壬生の乱が発生。そのため7月に服部半蔵正成は、徳川家康に従い、甲斐国に出陣しています。服部半蔵正成は、伊賀衆を率いて勝山城、甲斐、駿河を監視しました。
9月初旬に佐久郡江草城を落城しています。9月下旬、服部半蔵正成は、戸倉城の援将として90騎を率いて防衛した。9月8日の夜には敵の砦である佐野小屋に伊賀衆2人を忍び入れて詳細に報告させます。そして9月15日に伊賀衆を先鋒として、大雨に紛れて攻め落としました。この武功に対して徳川家康は、信玄、勝頼の二代を防いだ堅固な砦を遂に落とした、と賞賛しています。
1582年3月小牧長久手の戦い。100人の鉄砲隊で豊臣軍を撃退しています。
1590年小田原征伐に鉄砲奉行として従軍しました。この戦で服部半蔵正成は、首を十八級も挙げたということです。
1592年、肥前名護屋に鉄砲奉行として従軍。これが服部半蔵正成にとって最後の出陣となった。
1597年1月2日に病死しています。
「運命の戦いとなった本能寺の変から伊賀越え」
あわせて読みたい記事:【どうする家康】岡田准一が織田信長の演技と松本潤についてコメント
1582年5月に明智光秀は任務を解かれて、羽柴秀吉の毛利征伐の支援の命を受けます。そして、6月21日早朝に出陣。しかし、亀山城内か柴野付近で明智光秀は、重臣たちに織田信長の討伐のことを告げたようです。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智光秀の明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と述べて京都へ向かったということです。また雑兵は信長討伐については知らされることはなく、本城も信長の命令で徳川家康を討つものと思っていたとされています。光秀の軍は、織田信長が宿泊していた京都の本能寺を奇襲し包囲。明智軍は13000人、しかし、織田信長は近習の約100人ほどでしか守備をしていませんでした。それゆえに織田信長は奮戦むなしく本能寺に火を放ち、自害したとされています。しかし、織田信長の死体は発見されませんでした。明智光秀の軍の兵士や褒美を得ようとする地元の武士たちは、織田信長と同盟を結んでいる徳川家康を探し回っていました。
自分もやられるかもしれないと思った、徳川家康は服部半蔵を頼りました。この本能寺の変の際に徳川家康は取り乱して、いったん京都を目指すものの、家臣に止められて両国の三河国に帰還することになります。そして、徳川家康は滞在していた堺から伊賀を通って伊勢から三河国に帰還する、伊賀越えを行います。この伊賀越えで徳川家康を援護したのが服部半蔵正成でした。服部半蔵正成は、伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉して、彼らに警護させることによって徳川家康の一行を安全に通行させました。さらに伊勢から船で三河国の岡崎まで護衛するようにしました。この後、伊賀、甲賀の徳川家康の味方になった者たちは、徳川幕府に仕えるようになりました。こうして、服部半蔵正成は、伊賀、甲賀の衆を配下として指揮を執るようになっていき徳川家康を主君として数々の戦果を挙げていくことになりました。
「服部半蔵正成の正体は忍者ではなかった?」
あわせて読みたい記事:【高山右近】キリスト教信仰で聖書を愛し信長、秀吉の心を動かした
実のところ服部半蔵である正成、自身は槍を持ち、甲冑を着て足軽を率いた武将で一番槍、一番乗りなどを重視して数多くの武功をあげた武将です。
そして槍の使い手として名高く、敵味方より鬼半蔵と言われました。また、伊賀越え後に配下になった伊賀同心は、徳川家臣団の一部門であり、服部家の家臣ではありません。服部半蔵正成は、あくまで指揮官の1人であり、伊賀国の忍者の棟梁ではありませんでした。合戦において、服部半蔵正成は、伊賀の隊や甲賀の隊、根来の隊などを指揮していました。晩年は出家して、江戸麹町の清水谷に庵を建てて過ごしていたということです。
この記事へのコメントはありません。