【今川義元】桶狭間の戦いで東海道一の弓取りとしての実力が明らかに

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【今川義元】桶狭間の戦いで東海道一の弓取りとしての実力が明らかに

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東海地方の駿河、遠江、現在の静岡県を支配した戦国大名が今川義元は、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れていますが、東海道一の弓取りとして有名でした。東海道一の弓取りと呼ばれた今川義元は、天下統一を果たせる武将として期待されていったが、1560年に終わりを迎えています。それが、今川義元にとって運命の戦いとなった桶狭間の戦いです。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、東海道一の弓取り、今川義元の生涯と桶狭間の戦いをまとめてみました。


「今川義元のプロフィール」

  • 出身地:駿河国(現在の静岡県中部)
  • 生年月日:1519年(誕生日は不明)
  • 死亡年月日:1560年5月19日
  • 享年:42歳(戦死)
  • 運命の戦い:桶狭間の戦い

「文学に励んだ幼少期から兄との戦」

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小さい時から、頭が相当よかった。しかし、5人兄弟で三男で既に兄たちがいたため駿河国富士郡瀬古善得寺に預けられることになった。この時、太原雪斎から学問を学ぶことになった。その後、建仁寺で栴岳承芳となります。さらに妙心寺で大休宗休について学識を深めていきます。その後、父である今川氏輝が1536年に急死。そして跡継ぎのために内乱が起きた時、今川義元は、太原雪斎の助けを得て、兄たちに勝利し、今川家を継ぐことになった。


「結婚してから領土拡大を図る今川義元」

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1537年2月になると甲斐国、現在の山梨県の武田家は今川家の敵だったが、武田信虎(武田信玄の父)の娘である定恵院を正室に迎えて甲駿同盟を結び統治を安定させようとします。しかし、同月である2月に駿相同盟を結んでいた北条氏綱の怒りを買うことになり、駿河国富士郡吉原に侵攻されてしまいます。

1540年には、さらに尾張国の織田信秀によって三河国に侵攻されてしまいます。

1541年、武田信虎が武田信玄のクーデターによって甲斐国から追い出されると今川義元は武田信虎を受け入れながら、武田信玄との同盟関係も継続しています。

1545年になると今川義元は山内上杉憲政と同盟を結びます。さらに古川公方、足利晴氏らと連合して80000の軍で北条氏康の軍を攻め、勝利しています。この時期に三河の西三河の松平広忠の嫡男である竹千代(徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わして三河勢の従属化を強化していきます。しかし、三河田原城の戸田康光が人質の竹千代(徳川家康)を敵の織田氏に送るという裏切りが生じます。このことに対して今川義元は武力侵攻し戸田氏を滅ぼします。

1548年になると今川義元の三河への進出に対して織田信秀が侵攻する、第二次小豆坂の戦いが勃発。今川義元の軍師である太原雪斎と朝比奈康能を大将として今川軍は織田軍に勝利しています。

1549年に今川義元は領土を拡大させます。松平広忠が死去したために松平家に対して支配をしていた西三河地域を領土にしようとします。岡崎城に家臣を送り松平家の所領を領有としたのです。また三河の安祥城を攻略して織田家の勢力を三河から除きます。そして城将の織田信広を捕らえて人質交換によって竹千代(徳川家康)を奪還することに成功します。


「戦国大名を宣言し織田軍と激突」

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1553年、今川仮名目録に室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間の関係を完全に断ち切り戦国大名であることを明確化します。

1554年に嫡子の今川氏直に北条氏康の娘である早川殿を縁組して、武田氏、北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成。

1555年に起きた第二次川中島の戦いで武田信玄と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させることに寄与しています。しかし、三河を巡って織田氏との対立は激化していきます。三河愈劇が起こり、織田氏の動向に対して吉良氏や奥平氏など今川氏から離反します。

1558年、松平元康に三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて勝利しています。この戦いを最後に今川義元は今川氏直に家督を譲り隠居します。

1560年、今川義元にとって運命の戦いとなった、桶狭間の戦いで戦死。享年42。


「桶狭間の戦いのきっかけ」

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従来では今川義元が桶狭間に出陣した理由は、京都へ上り、天下に号令をかけるためとされていました。しかしながら現在では、このことは誤りとされています。今川家と織田家は三河国と尾張国、現在の愛知県の国境めぐり長い間、対立していました。桶狭間の戦いの約10年前に今川義元は、三河国と尾張国の国境近くの織田方の拠点だった鳴海城、大高城、沓掛城を今田方に引き入れます。この3つの城や、その周辺が桶狭間の戦いの舞台となるのです。今川義元の動きに対し、織田信長は今川に奪われた、鳴海城と大高城の近くに小さな城にあたる砦を築き、2つの城の連絡を取れないようにしました。つまり今川義元が桶狭間に出陣したのは、鳴海城と大高城の救援と織田方の砦の排除が目的でした。桶狭間の戦いは三河と尾張の国境をめぐる戦いだったといえます。


「歴史資料で異なる桶狭間の戦いの見解」

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今川義元の攻防背景などの根拠になっている資料は、江戸時代に編纂された信長記です。信長記は多くの研究者が指摘するように歴史資料というよりも、歴史小説に近く、江戸時代に広く庶民に読まれていました。現在の信長のイメージや桶狭間の戦いのイメージは信長記によるところが大きいのです。一方、日本軍事史研究者の藤本正弘氏は信長の家臣の太田牛一が記した、信長の伝記である信長公記を重視すべきだと指摘しています。筆者の太田牛一が信長公記について創作はしていない、していれば、神罰を受けると綴っており、正確な表記を心がけていることから、一級資料として重視されているのです。織田信長が奇襲で攻撃したなど桶狭間の戦いのイメージは信長記によるものです。しかし、信長公記には全く異なる桶狭間の戦いの様子が描かれていました。


「桶狭間の戦いにおける真実とは」

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1560年5月12日、今川義元は大軍勢を率いて出発。5月18日に沓掛町に到着します。今川義元は今川方に従軍していた松平元康、後に徳川家康に大高城に食糧を運ぶことを命じました。大高城は、織田方に包囲されており、城に食糧を運び込むなど不可能に近い状況です。しかし、元康は織田方の鷲津砦と丸根砦の間を縫うように突撃し、大高城に食糧を運び込むことに成功しました。元康の貢献により大高城は落城を免れたのです。一方、織田信長にも今川の大群が沓掛城に入ったことが知らされますが、織田信長は動きません。5月19日、合戦当日に今川義元は沓掛城を出て西へ進みます。さらに大高城にいた松平元康らの今川方の先鋒部隊が織田方の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。明け方になると丸根砦、鷲津砦を今川軍が攻撃し始めたことが信長に知らされます。知らせを聞いた信長は突然、「人間50年、下天のうちを比べれば、夢幻の如くなり」と幸若舞の敦盛を舞うとすぐに出陣の準備をしました。そして居城の清洲城から出陣するのです。


「今川義元は大将首として狙われていたのか?」

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織田信長が出陣した頃には既に丸根砦と鷲津砦は、今川方の手に落ち煙が上がっていました。今川方の勝利はもう間近だったのです。従来、桶狭間の戦いは、圧倒的少数の織田信長軍が間道を介して、今川義元の本陣を奇襲したと考えられてきました。しかし、藤本氏によれば信長記の創作で信長公記には全く異なる合戦の姿が描かれているといいます。信長は正面から今川軍に攻めかかり、勝利をおさめたのです。織田信長は、昼前に善照寺砦に到着しました。藤本氏によれば信長の作戦は丸根砦と鷲津砦の攻撃で疲れている今川方の先鋒隊を攻撃して戦況を打開することにあったといいます。大将の今川義元の首が狙いだったわけではなかったのです。


「今川義元が命を落としたきっかけとは」

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一方、沓掛町出た今川義元の本陣は、桶狭間山に置かれたといいます。従来、狭間は、谷を意味するため、先鋒隊の勝利で油断していた今川義元は桶狭間と呼ばれる谷で休息をとっていたため、信長の奇襲に対応できず敗れたとされています。しかし、正確な場所わからないものの、信長公記の記述から今川義元は山か丘陵地に陣取っており、織田軍の動きはある程度、把握していたのです。今川方は本陣の前方に前衛隊を置き、織田軍の侵攻に備えました。さらに信長は中島砦に移動します。藤本氏によれば、中島砦は最も低い場所にあり、信長が奇襲を仕掛けるために隠密行動をとっていない事は明らかです。信長をさらに中島砦から進軍しました。相手から丸見えの中、近づくのですから、当然のこと家臣は止めに入ります。これに対し信長は昨夜、大高城に兵糧を運び、鷲巣砦、丸根砦で戦った日だから疲れきっている、恐れる事は無いと家臣を鼓舞します。この織田信長の鼓舞に多くの織田方の兵が勇気づけられますが、実はこの信長の認識は誤りだったことが信長公記に記されているのです。大高城に兵糧を運び、鷲巣砦、丸根砦まで落としたのは松平元康ら、先鋒隊ですが休息のため大高城に戻っていました。つまり今川義元が信長の攻撃に備えておいた前衛隊を信長は攻撃目標の先鋒隊と勘違いしていたのです。しかし、この勘違いが歴史大きく動かすことになります。信長記の逸話から信長は、今川方の情報集め、情報戦で勝利したと言う俗説もありますが、この段階で信長は前衛隊と先鋒隊を勘違いしており、今川義元の本陣がどこにあるのかも正確に把握できていなかったのです。午後1時ごろ視界を妨げるほどの大雨が降りました。そして雨が上がったところで、信長は今川義元の本陣の前方を守っていた、前衛隊に正面から攻めかかります。そして信長軍は前衛隊を突破し、そのままの勢いで今川の本陣に攻め込むのです。今川義元は予期せぬ攻撃に輿を捨てて、今川義元の親衛隊にあたる旗本とともに退却を始めました。高貴な人しか乗ることが許されない輿を見て織田信長は旗本はこれなり、これにかかれ。と命じます。つまり、織田信長は、ここで初めて自分たちが攻撃しているのが今川義元の本人だと気づき、今川義元を打つように命令したのです。乱戦の中で今川義元も太刀を抜いて奮戦するものの、ついに織田方の武将の毛利新介によって討たれました。今川義元、享年42。「海道一の弓取り」と称された武将の最期となりました。総大将が討たれた今川方が浮き足立ち文字通り、総崩れとなります。


「桶狭間の戦いにおける勝因とは」

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織田信長が勝利することができた理由はどこにあるのでしょうか。歴史家の藤本氏によれば、信長の勝因は下記の点を挙げることが出来ます。

1→織田信長が陣頭指揮をとった

2→意外な時間と場所からの攻撃

まずは1の点について。織田信長が積極的に陣頭に立って指揮を執ったことが結果的に大勝利につながりました。当初攻撃目標としていた先鋒隊と今川方の前衛隊を勘違いして、攻撃を命じたことで前衛隊を突破し、本陣に攻撃することができたのです。織田信長自ら戦場に赴いて攻撃を命じたことも大きな勝因と言えるでしょう。

2については、織田軍が大雨のやんだ午後2時ごろに敵から丸見えの低地から攻め込んだ意外な攻撃が勝因というものです。通常、戦国時代の戦は、明け方から開始することが多く、今川方がまさかこの時間に低地から攻撃を受けると想定していなかったのです。信長記に描かれた迂回奇襲ではなく、正面からの攻撃ではあったものの、今川方にとっては想定外の攻撃でした。


「今川義元の敗因とは何だったのか」

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桶狭間の戦いにおける今川義元の敗因は何でしょうか。従来は、緒戦の勝利で油断していたところを奇襲されて敗れたとされてきましたが、今川義元は、本陣を「おけはざま山」と記される見晴らしの良い場所に置き、織田軍の襲来に備え、前衛隊を配備していたのです。しかしながら、歴史家の藤本氏によれば今川義元の敗因は、今川の前衛隊の混乱、定石通りの行動にあったと指摘しています。まず前衛隊の混乱は、織田信長の攻撃が想定内の行動だったことに加え、前衛隊は後方の今川義元にお伺いを立てて行動する必要があり、想定外に弱い部隊だったのです。これが前衛隊が突破されてしまった要因でした。また今川義元の定石通りの行動が命取りとなってしまいました。前衛隊が突破された今川義元は、その場で織田軍と戦わず、退却と命じています。退却せず織田軍と戦っていれば付近の今川兵らが加わり勝利を収めた可能性は十分にあったでしょう。しかし、想定外の戦闘を行うよりも一旦退けば後方に今川の城もあり、味方もいることを考えたのです。定石通りで常識的な行動といえます。しかし戦の前に大雨も降ったこともあり、足場が悪く織田軍に追いつかれてしまい、今川義元は、命を落としたのです。戦は定石通りにはいかないというのが桶狭間の戦いの教訓と言えるでしょう。今川義元の軍師となった太原雪斎は、合戦の作戦を立てたり、他の大名と交流して同盟を結んだりして大活躍しました。このことからすると、太原雪斎が死んで5年後、今川義元が桶狭間で戦死したため、この時、太原雪斎が生きていれば今川義元は死なずに済んだと言われています。

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