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【九鬼嘉隆】戦国時代に最強の軍艦を作り海軍を率いた海賊大名とは
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戦国時代の海上では海賊たちが力を握っていました。志摩、現在の三重県には7人衆と呼ばれる海賊がいて、九鬼義隆はその1人でした。九鬼嘉隆は、織田信長に仕えることになりました。大型の船の表面に鉄板を貼り付けた鉄甲船をつくり、九鬼水軍を率いて海賊大名と呼ばれます。戦国時代の軍艦を有して戦国最強の海軍を率いた九鬼嘉隆とは一体何者だったのか。今回の「TimeMachineMuseum」では、九鬼嘉隆に注目します。
「九鬼嘉隆のプロフィール」
- 出身地:志摩、現在の三重県
- 生年月日:1542年
- 死亡年月日:1600年10月12日
- 享年:59 (自殺)
- 運命の戦い:木津川口の戦い
「九鬼嘉隆の九鬼水軍が最強の戦国海軍になるまで」
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1542年に志摩国の波切城(現在の三重県志摩市)で定隆の次男として生まれています。その後、1551年に父の定隆が死去して、九鬼嘉隆は波切城主となっています。1560年に九鬼浄隆(長兄)の田城城が攻められ、死去。このために九鬼嘉隆は朝熊山に逃亡。その後、桶狭間の戦いに勝利した織田信長の家臣、滝川一益と知り合い紹介され、織田信長に仕える身となりました。
1569年、織田信長の家臣として、織田信長が北畠具教を攻めたときに九鬼嘉隆は、九鬼水軍を率いて北畠の支城である大淀城を陥落させ正式に織田家の家臣団の一員として迎えられています。
1570年には、志摩十三地頭を攻略。このことによって志摩国の統一を果たしました。
1574年は、織田信長が伊勢長島の一向一揆を鎮圧するために、海上から射撃を行うことを作戦する。この際に敵陣を攻略し武功を上げています。それで、織田信長は九鬼嘉隆を深く信頼しました。
「九鬼嘉隆の運命の戦いとなった木津川口の戦い」
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1576年、毛利氏と織田氏との間で海戦、第一次木津川口の戦い(大阪湾木津川河口)が起こります。7月12日、淡路島の岩屋を出発した毛利水軍は、泉州の貝塚に渡り、紀州の雑賀衆と同意し、7月13日に堺津から木津川口に進みます。そこで織田水軍と接触。7月13日~15日に毛利水軍が石山本願寺への兵糧搬入を図りますが、織田水軍が木津川口で阻止しようとします。しかし、焙烙玉(手投げ弾)や焙烙火矢(火矢)の攻撃によって船が焼かれてしまいます。応戦した8名の武将のうち7名が討死。多くの戦死者を出し大敗しています。こうして毛利水軍は織田軍に包囲されている石山本願寺に兵糧を入れることに成功しています。この大敗によって九鬼嘉隆の進言を受け入れた織田信長は、鉄の装甲を備えた大安宅船の建造を命じます。
1578年6月に多数の大鉄砲と大砲3基を備えた大安宅船が7隻(九鬼嘉隆の黒い船6隻、滝川一益の白い船1隻)が伊勢湾各所で竣工します。6月10日には、織田信長から松井湯友閑に堺の年貢の立用して九鬼水軍が兵糧に事欠かないように配慮するようにと指示が出ます。
1578年6月26日に伊勢湾から大坂表に向けて回航中に熊野灘で雑賀衆と交戦。しかし、大鉄砲を放ち一蹴しています。その後、7月17日に堺港に寄港すると多くのギャラリーが詰めかけ九鬼水軍の船に驚きます。
1578年7月18日に大坂表に乗り出して海上封鎖を開始しています。9月30日に堺港で観艦式を執り行います。
1578年10月12日に第二次木津川口の戦いの前哨戦。
1578年10月21日に荒木村重の謀反が起こります。
1578年11月6日に毛利水軍と村上水軍が600隻の船で木津川河口を奇襲攻撃。このために戦闘開始となり、九鬼嘉隆の率いる大安宅船6隻と九鬼水軍が応戦し午前8時から正午にかけての海戦となりました。戦闘開始当初は、九鬼水軍が村上水軍らに囲まれ戦況は、毛利水軍と村上水軍が優勢に見えました。しかし、九鬼嘉隆の作戦は敵船を近くまで引き寄せ大安宅船6隻に装備した多数の大鉄砲と大砲で敵旗艦を斉射することでした。この作戦は成功し、一斉斉射の後は毛利水軍と村上水軍が接近することができず敗走する形となりました。こうして、九鬼嘉隆は第二次木津川口の戦いの勝利に大きく貢献しています。この武功によって織田信長から志摩に加えて摂津野田・福島などを与えられています。その後、織田信長が九鬼嘉隆の志摩国領有を認めて九鬼氏の家督を継ぐように取り計らっています。
「最強の戦国海軍の最期」
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1582年6月に本能寺の変で織田信長が死去しますが、その後も織田家の織田信雄に仕えます。
1584年に小牧・長久手の戦いが勃発。この際に滝川一益の誘いに乗って羽柴秀吉(豊臣秀吉)の陣営に寝返り、伊勢国の松ヶ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城合戦に参戦。
1585年に従五位下・大隅守に叙位・任官する。そして、答志群鳥羽(現在の三重県鳥羽市)を本拠地として鳥羽城の築城を開始。
1587年には豊臣秀吉の九州平定に参戦。
1590年には小田原征伐に参戦。
1597年に家督を子・九鬼守隆に譲り隠居しています。
1600年に関ヶ原の戦いが起こりますが、九鬼嘉隆は西軍に子の九鬼守隆は東軍で戦うことになりました。これは、どちらが敗れても家名を存続させるための九鬼嘉隆の戦略だったためです。九鬼嘉隆は、九鬼守隆が徳川家康に従って会津征伐に向かっている間に、堀内氏善と鳥羽城を奪取します。そして、伊勢湾の海上封鎖を行い、8月24日の安濃津城の戦いの勝利に貢献。しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡。この件に関して九鬼守隆は徳川家康と会見し、父・九鬼嘉隆の助命を嘆願します。徳川家康は、九鬼守隆の功績の大きさから九鬼嘉隆の件を了承します。しかし、九鬼守隆が急使を通して通して九鬼嘉隆に伝える前に家臣の豊田五郎右衛門が独断で九鬼家の行く末を案じて九鬼嘉隆に切腹を促します。そして、これを受け入れた九鬼嘉隆は1600年10月12日に和具の洞仙庵で自害し死去しています。享年59でした。
「九鬼嘉隆が作った鉄甲船とは」
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戦隊4節で多い大砲備えた長さ22メートルの巨大な戦艦でした。そして鉄甲船は6隻作ることになりました。
この鉄甲船によって木津川口で村上水軍と激突しました。鉄甲船は、木津川口の戦い(第一次)で村上水軍が放っていた火矢を跳ね返すことができました。そして鉄甲船の大砲で攻撃し、村上水軍の船を沈めることができました。
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