【黒田長政】慎重にして大胆な天才軍師は切り込み隊長の初代福岡藩主

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【黒田長政】慎重にして大胆な天才軍師は切り込み隊長の初代福岡藩主

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初代福岡藩主として有名な戦国武将である黒田長政。NHK大河ドラマでも題材となった黒田官兵衛の子供です。その性格は慎重にして大胆で、数多くの武功を挙げたことで知られています。関ヶ原の戦いでは、黒田長政は小早川秀秋、吉川広家らを徳川軍に引き込むなど、武力だけではなく、頭を使った作戦でも力を示しました。しかし、天下を取ろうと言う野望を持っていたわけではなく、その件で天下を目指していた父黒田官兵衛を残念がらせたと言われています。その黒田長政の生涯とは一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、初代藩主の黒田長政に注目します。


「黒田長政のプロフィール」

  • 出身地:播磨、現在の兵庫県
  • 生年月日:1568年12月3日
  • 死亡年月日:1623年8月4日
  • 享年:56(病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い

「黒田長政の幼少期は人質生活を満喫?」

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黒田長政は、1568年12月3日黒田孝高の着男として播磨姫路城に生まれました。幼名は、松寿丸。この名前は、当時縁起の良い名前として無償の嫡子によくつけられた名前でした。黒田長政は、父の黒田孝高が1577年10月15日に羽柴秀吉に対して起請文を提出し、人質として羽柴秀吉に預けられています。しかし人質ながら我が子のように可愛がられて過ごしていました。1578年、織田信長に1度降伏した荒木村重が有岡城の戦いを勃発。父の黒田孝高は、拘束されて、戻ってこないために織田信長は、裏切られたと勘違いし、黒田長政は処刑するという命令をします。しかし、竹中重治が密かに黒田長政の身柄を引き取って、家臣の不破矢足の邸宅に隠し、織田信長には、処刑したと虚偽の報告をした。その後、有岡城の陥落後に黒田孝高が救出され疑念が晴らされ、姫路へ帰郷しています。


「織田信長の死後に初陣を飾り武将として頭角を現していく」

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1582年6月、本能寺の変で、織田信長が明智光秀の襲撃によって死去します。この後、黒田長政は羽柴秀吉に仕えることになります。そして、備中高松城攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど中国地方の毛利氏と戦います。

1583年、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げました。河内国内に450石の領地を与えられています。

1584年、小牧・長久手の戦い。この戦いでは、大坂城の留守居を務めて、長宗我部水軍と戦闘。この戦いでも功績を上げ、加増2000石を与えられています。

1587年、九州平定において、黒田長は日向財別城を攻め功績を挙げました。

1588年4月、黒田長政は城井氏を殲滅。

1589年、父の黒田孝高が隠居し、黒田長政が家督を相続。


「朝鮮出兵で多くの武功を挙げる黒田長政」

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1592年、文禄慶長の役で渡海。黒田長政は、5千の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて、一番隊の小西行長、二番隊の加藤清正とは別の進路の先鋒となりました。釜山上陸後は、金海、昌原、霊山、厳風、星州、金山、清州、竹山などを進撃して、5月7日に漢城へ到達。そして、漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略。6月15日、大同江の戦いでは、朝鮮軍の夜襲を受けて苦戦していた宗義智の軍を救援して黒田長政は、奮戦し朝鮮軍を打ち破っています。6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領。

1593年、中央から派遣された、李如松が率いる明の大軍が小西行長らの平壌城を急襲。撤退してきた小西行長の軍を黒田長政は白川城に収用。漢城に集結した日本の軍は、碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破。そうした中、黒田長政は幸州山城の戦いに出陣しています。そして、和平交渉が進み日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣。6月に晋州城を攻略、黒田長政の配下の後藤基次が先陣争いで活躍。

1597年8月、黒田長政は、再度5千の軍役を課せられ、加藤清正、毛利秀元らと黄石山城を攻略、8月に全州で会議に従って軍を進めて、天安へ進軍。12月に第一次蔚山城の戦いで明軍を撃破。


「豊臣秀吉の死後は関ヶ原の戦いを経て初代福岡藩主となる」

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1598年8月18日、豊臣秀吉が死去し日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると黒田長政たち日本軍は撤退。帰国後、石田三成と路線対立。そして徳川家康に接近。

1599年、前田利家が死去すると、黒田長政は福島正則や加藤清正らとともに石田三成を襲撃しました。

1600年、関ヶ原の戦い。徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと徳川家康に従って黒田長政は出陣し、出兵中に石田三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、黒田長政も東軍の武将として関ヶ原の戦いで戦います。本戦では、家臣の管正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に攻撃を加えて、島清興を討ち取り、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り交渉する役目も務めています。

1601年、豊前国から筑前国に入府。堺と並ぶ商人の街である博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といった土地を黒田氏ゆかりの備前国の故地からとって福岡と名付けて築城に着工。1606年に福岡城は全体が完成。黒田長政は、初代福岡藩主となります。

1612年、嫡男の黒田忠之とともに上洛しています。

1614年、大阪冬の陣では、江戸城の留守居役を務めて、代理として黒田忠之を出陣させています。

1615年、大阪夏の陣では、徳川秀忠に属して、加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦いました。

1623年8月4日に黒田長政、病によって死去。享年56。


「関ヶ原の戦いで徳川家康を勝利に導いた黒田長政」

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関ヶ原の戦いの際には、黒田長政は、小早川秀秋に裏切ることを約束させていました。しかし、小早川秀秋が動かないために、徳川家康の使者が、本当に裏切るのかと黒田長政に質問をしました。小早川秀秋に騙されたと思った黒田長政は、声を荒らげて、こうなったら私が戦って示すまでと叫んだと言うことです。そして、その後、黒田長政の約束通りに小早川秀秋や吉川広家などの諸将が徳川軍に従軍。関ヶ原の戦いの戦況は一気に徳川軍に傾き勝利しています。

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