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【前田慶次・利益】戦国ヤンキーカブキ武将で愛されたリバティウォーク
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「自由に生きたい」。これは現代人でも誰もが願う生き方です。それを戦国時代において生涯貫き通した武将が前田慶次(前田利益)です。戦国の世を自由に生きた、かぶき者といわれて戦闘中でも目立つことを意識。天下の覇王といわれた織田信長のような派手な生き様が魅力的なのかもしれません。では、実際のところ前田慶次とは一体どのような生涯を送ったのか。今回の「TimeMachineMuseum」では、戦国のカブキ武将の前田慶次(前田利益)に注目します。
「前田慶次のプロフィール」
- 出身地:尾張、現在の愛知県
- 生年月日:1533年
- 死亡年月日:1605年
- 享年:73(病死)
- 運命の戦い:長谷堂城の戦い
「戦国のカブキ者と言われた前田慶次(利益)」
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前田慶次は前田利家の兄である前田利久の養子だったが、前田家を離れて京都で気ままに暮らしていました。
目立つ服や行動を好んでいたため、かぶき者と呼ばれていました。
1581年頃に前田家に戻り、前田利家に従いました。
1582年6月に本能寺の変で織田信長が死去。この時に前田慶次は、滝川勢の先手となって応戦。
1584年、小牧・長久手の戦いが勃発。末森城が佐々成政に攻められていたために救援に向かっています。
1590年3月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると前田利家が北陸道に出征し前田慶次が従軍。しかし、その後、前田利家との仲が悪くなったため、再び前田家を去って行きました。
1588年頃から上杉家の家臣である木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席しており、やがて前田慶次は、上杉景勝の家臣、直江兼続と親しくなり、上杉家に仕えることになりました。自由な立場にさせてくれるなら、給料はどうでも良いと話していたということです。
1598年から1600年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けています。関ヶ原の戦いの時、石田三成の軍(西軍)の直江兼続は、徳川家康の軍(東軍)の武将を攻めるため、長谷堂城の戦いを起こします。しかし、関ヶ原(岐阜県)で西軍が破れたことを知った直江兼続は、絶望して自殺しようとしました。前田慶次は、それを止めて敵を食い止めながら、直江兼続とともに、戦場から逃げきることに成功しました。前田慶次は、その後も死ぬまで直江兼続を支え続けたいうことです。
「前田慶次と前田利家の水風呂事件」
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前田利家を水風呂に入れて逃げ去ったという話について:前田慶次はいつも自分に説教する前田利家が大変苦手でした。ある日、前田慶次は前田利家を自宅に案内し、お風呂が沸いていますと勧めました。前田利家が風呂に入ると冷たい水が入っていました。前田利家は怒ったが、すでに前田慶次は、前田利家の馬に乗って前田家を去っていたということです。
「運命の戦いとなった長谷堂城の戦い」
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1600年、徳川家康が自分に従わない会津(現在の福島県)の上杉景勝を討とうとすると、出羽(現在の山形県)の最上義光は、徳川家康に味方しました。これに対して、上杉景勝は、東北地方で徳川家康の味方する大名を討とうとして、家臣の直江兼続に最上義光と戦うように命じました。上杉景勝の軍は、最上義光の領地に入って、軍を侵攻させましたが、最上義光の軍が立てこもる長谷堂城(現在の山形県)を攻めあぐねていた。そこへ最上義光を助けるために陸奥(現在の東北地方東部)の伊達政宗が加わった。激しい戦いが続く中で、関ヶ原(現在の岐阜県)で徳川軍(東軍)が勝利したという知らせが届きました。米沢城に帰るしかない直江兼続は軍を引き上げようとしましたが、最上義光が伊達政宗の軍とともに上杉景勝の軍を追撃してきました。直江兼続は、鉄砲隊で迎え打ちながら、2万人の兵を無事に米沢城(現在の山形県)に帰らせることに成功しました。
「前田慶次の数々の逸話や甲冑について」
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前田慶次は、豊臣秀吉から天下御免のかぶき者と言う称号与えられました。破天荒な武士だったとする逸話が多くありますが、織田信長の影響だとする資料もあるようです。
前田慶次が身に付けた鎧兜は、戦場でも目を引くほど派手でした。愛用の鎧は、紫糸縅朱漆塗五枚胴具足という、朱色の胴衣に紫糸の縅をつなぎ合わせた鎧でした。赤と紫の色の組み合わせからして、派手な色彩であったとしています。当時の鎧の色は黒が主流でした。そのような中、前田慶次の赤い鎧は非常に目立ちました。前田慶次は、当時大流行した南蛮形兜を愛用していました。この兜は、名前の通り、西洋の輸入物で顔を覆う頰あての部分が特殊なデザインであったため、かぶき者が好む兜にふさわしいものでした。
前田慶次は、京都で自由気ままな生活を送っていたとされています。そのエピソードに以下のものがあります。
愛馬「松風」を華美して、京都の市中を練り歩いたというエピソード。
入浴時に脇差で足の裏の垢をこすり取る。
足を投げ出して、ふんぞりかえる、商店主に対して、この足も売り物か?と尋ねて100貫文を払って、その足を切り落としたという。
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