
目次
【前田利家】イケメン武将は戦国無双の槍の又左と言われた武将伝説
あわせて読みたい記事:【板垣李光人】徳川四天王の赤備えの赤鬼と言われた井伊直政について
あわせて読みたい記事:【森長可】槍使い鬼武蔵として電光石火の如く戦国時代を駆け抜けた
あわせて読みたい記事:【どうする家康】松本潤が大河ドラマや演技について素直にコメント
182㎝を誇る体格で端正な顔立ちから戦国時代のイケメン武将と名高いのが前田利家です。豊臣秀吉とは幼馴染ゆえに親友のような関係から敵方になっていても友好関係にヒビが入ることはないほど絆は固かったと言われています。織田信長を主君として数々の武功を挙げ、伝説を残した前田利家ですが、その逸話は現在でも人々を魅了するものです。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、前田利家に注目します。
「前田利家のプロフィール」
- 出身地:尾張、現在の愛知県
- 生年月日:1538年
- 死亡年月日:1599年3月3日
- 享年:62(病死)
- 運命の戦い:賤ヶ岳の戦い
「槍使いとして数々の武功を挙げた生涯」
あわせて読みたい記事:【山田裕貴】どうする家康の徳川四天王の本多忠勝についてコメント
前田利家は尾張、現在の愛知県に生まれ、幼名は犬千代。14歳頃に織田信長に仕えていました。槍の名手で数々の戦いで活躍しました。槍使いとして「槍の又左」との異名を持っていました。若いころは、短気で喧嘩早く、派手な身なりが好きでかぶき者と呼ばれていました。前田利家の初陣は、1552年、清洲城主の織田信友と織田信長の間に起こった萱津の戦いです。この戦いでは首級一つあげる武功を立てています。この後、元服して前田又左衛門利家と名乗っています。この頃、前田利家は、槍の又左衛門、槍の又左を持って呼ばれていました。
1556年織田信長とその弟の織田信雄により家督争い稲生の戦いで宮井官兵衛によって右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという武功をあげています。
1558年、浮野の戦いにも従軍して功績をあげています。また、このこの赤と黒の母衣衆の赤穂母衣衆の筆頭に抜擢されました。
1560年、前田利家は、出仕停止でしたが、織田信長に無断で桶狭間の戦いに参戦し、朝の合戦で首1つ、本線で2つの首、合計3つの首を上げ、武功を挙げましたが、帰参は許されなかった。
1561年の森部の戦いも無断で参戦しています。この戦いでは、足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取り功績をあげました。この時には足立六兵衛以外にも首級を1つ上げています。2つの首級を持参して織田信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、織田信長から300貫が加増されました。そして、ようやく帰参が許されたのです。
1569年に織田信長から前田家の家督を継ぐように命じられました。
1570年4月金ヶ崎の戦いに参戦。浅井長政と朝倉景義の軍に撤退を余儀なくされた織田信長の軍の警護を担当しました。そして6月の姉川の戦いでは、浅井助七郎を討ち取りました。9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中で、1人踏みとどまって敵を倒す功績をあげました。
1573年、8月の一乗谷城の戦い、1574年7月の長島一向一揆。1575年5月の長篠の戦いなどで鉄砲奉行としての参戦が確認されています。
1574年には、柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従軍しました。
1581年、織田信長から能登一国を与えられ、七尾城主となりました。
1582年6月に本能寺の変で、織田信長が家臣の明智光秀に討たれました。前田利家は、柴田勝家に従い、上杉景勝の軍が籠る越中魚津城を攻めました。この際、山崎の戦いに加わってはいません。
1582年6月27日清洲会議において羽柴秀吉と柴田勝家が対立しました。前田利家は柴田勝家の与力だったことから、そのまま柴田勝家に寄せることになりました。しかし、かねてからの幼馴染で旧交のある豊臣秀吉との関係に大変苦しみました。
1582年、11月に柴田勝家の命を受け、豊臣秀吉を相手に和議の交渉を行いました。
1583年4月、前田利家は、賤ヶ岳の戦いにおいて5000ほどを率いて柴田軍として布陣しましたが、戦わないうちに戦前を放棄するような動きがあり、これは豊臣秀吉の勧誘に前田利家が早くから応じていたからではないかと推測されています。合戦中に突然退却し、羽柴軍の勝利を決定づけるものとなりました。
1584年、小牧長久手の戦い、これは豊臣秀吉と徳川家康、織田信雄が衝突したものです。前田利家は、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀・能登国にしましたが、末森城で佐々成政を撃破しました。4月9日の長久手の戦いでは、豊臣秀吉の軍は敗北しました。この間、前田利家は、北陸方面の守備を委ねられていたため、そこから動きませんでした。末森城の戦いに勝った、前田利家は続いて、加賀越中の国境の荒山・勝山砦を攻略し越中国に侵攻しています。
1584年8月前田利家が先導役を果たして、豊臣秀吉が100,000の大群を率いて越中国に攻め込みました。そして佐々成政は降伏しました。
1585年3月豊臣秀吉は雑賀衆を鎮圧。6月には弟羽柴秀長を大将として四国へ遣わし、ここを平定しました。
1585年7月豊臣秀吉は関白に任官され、9月に豊臣秀吉が豊臣姓を賜ると1586年に前田利家に羽柴氏を名乗らせて筑前守・左近衛権少将に任官させています。ちなみに1588年には豊臣秀吉から豊臣姓(本姓)を与えられています。
1586年7月から九州征伐に前田利家は8000の兵で畿内を守備しました。
1590年、小田原征伐。北条氏の北端の要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略した。その後、武蔵国に入り、鉢形城、八王子城を攻略しました。ついに1590年7月5日北条氏は降伏しました。この時には、すでに陸奥国の伊達政宗も降伏していました。小田原城陥落後、豊臣秀吉は8月になり帰陣の途に着きました。前田利家は残って奥羽の鎮圧に努めました。
1598年になると、豊臣秀吉とともに前田利家も健康の衰えを見せ始めるようになりました。4月20日に前田利長に家督を譲り隠居したのです。
1599年4月27日、前田利家は大坂の自邸で病没しました。享年62 。
「豊臣秀吉とは幼馴染で固い絆があった」
あわせて読みたい記事:【豊臣秀吉】天下統一を成し遂げるために天下人だけが持っていたもの
豊臣秀吉とは家が隣同士で家族ぐるみの付き合いをしていました。本能寺の変の後、豊臣秀吉と柴田勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いに発展しました。その時、前田利家は柴田勝家の部下になりましたが、豊臣秀吉と争いたくなかったために戦わずに戦場を離れ、最後は豊臣秀吉に味方をしました。豊臣秀吉に信頼された前田利家は加賀、現在の石川県を与えられ、北陸地方の支配を任されました。豊臣政権では最も重要な家臣として仕え、豊臣秀吉と大名たちとの間に入ってまとめ役にもなりました。豊臣秀吉が死ぬと徳川家康が権力を奪う動きを見せ始めました。前田利家は息子の豊臣秀頼を頼むと豊臣秀吉から頼まれていましたが、それができないまま翌年に病死しました。豊臣秀吉の死から約半年後に病気が悪くなって寝込んでいました。前田利家のもとに徳川家康がお見舞いに行きました。天下を取ろうとする徳川家康から豊臣家を守るため、前田利家は布団の下に刀を隠して徳川家康に会ったと言われています。前田利家は徳川家康を暗殺しようと考えていたと言われましたが、実行はされませんでした。
「前田利家の戦国列伝」
あわせて読みたい記事:【山県正景】武田四天王として赤備え戦国最強騎馬隊を率いた大武将
前田利家は、戦国時代において男性の平均身長が157㎝程度の時代に182㎝を誇る体格で端正な顔立ちから非常に目立つ見栄えの良い武将でした。
特徴となる前田利家の烏帽子兜は、合戦用の小型の烏帽子兜と行軍用兜と用途別に揃えていた。そして、槍の又左と呼ばれた前田利家の槍は、6m30㎝の長く派手なつくりでした。
初陣の戦いでは、合戦の際に目立つよう自ら朱色に塗られた6m30㎝の槍で出陣して首級を挙げる武功を立て、織田信長に「肝に毛の生えておるわ」と賞賛されました。
元服直後の稲生の戦いでは、合戦中に宮井官兵衛から右目の下に矢を受けた際に見方からは引き下がるように助言されるも「まだ首級を一つも上げてはいない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井官兵衛を討ち取りました。この武功に織田信長は、前田利家の戦いぶりを例に味方の士気を高めたということです。この時には前田利家は、戦後も矢を抜くことなく首実検にも参加しています。そして、この稲生の戦いの後の浮野の戦いで、さらなる槍先による武功を挙げて「槍の又左」という異名を持つ武将となりました。
槍使いとして究極の武将として称えられたのが、姉川の戦いです。浅井軍を攻めて浅井助七郎を討ち取ると織田信長は、「今にはじまらず比類なき槍」と言われています。そして、大坂本願寺攻めにおいて、春日井堤を退却する味方の中で、前田利家は一人で踏みとどまり、敵を倒して無事に味方を退却させています。この戦いから「日本無双の槍」、「堤の上の槍」と賞賛されました。
前田利家の戦は38戦で、織田信長の下で参戦したものでした。
前田利家の戦法は、合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきで、わずかでも自分の領国に踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。と説いていました。さらに、先手に戦上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす。とも説いています。
坂本城の天守に幽霊が出るという噂があった時には、自ら肝試しに志願して一晩過ごし、何事もなかったように天守から戻ったために豊臣秀吉から豪胆ぶりを称えられたという逸話があります。
「運命の戦いとなった賤ヶ岳の戦い」
あわせて読みたい記事:【明智光秀】裏切りの本性と織田信長の野望との関係は何だったのか
1582年、織田信長の跡継ぎをめぐり、会議が開かれた。これは清洲会議と言われる。織田信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と信長の孫である三法師を推す、豊臣秀吉が争った。跡継ぎが三法師に決まると、両者の対立が激しくなり、豊臣秀吉は織田信長を攻撃して降伏させました。このことに憤った柴田勝家は、賤ヶ岳で、豊臣秀吉に戦いを挑む。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の南側に陣を構えたが降伏したはずの織田信長が岐阜城で反乱を起こした。豊臣秀吉が一部の軍を残して岐阜に戻ったすきに、柴田勝家の軍は、豊臣軍を攻めた。このことを予想していた豊臣秀吉は岐阜から52キロの道のりをわずか5時間で引き返し柴田勝家の軍に襲いかかった。さらに前田利家の軍が戦場を離れると柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北ノ庄城へ逃げた。柴田勝家が賤ヶ岳から逃げ戻った、北ノ庄城は、柴田勝家が築いた、巨大な城で天守が高くそびえ立っていた。賤ヶ岳の戦いで勝手に柴田勝家の軍から離れた前田利家は豊臣秀吉と会って味方になっていた。前田利家を加えた数万の豊臣秀吉の軍は、北ノ庄城を攻囲した。豊臣秀吉は、この戦いが終われば、日本は平和になると考え、多くの戦死者が出たとしても、思い切って攻撃することを決意した。こうして、両軍の激しい鉄砲の打ち合いが始まりましたが、柴田勝家は負けることを覚悟していたということです。やがて天守に火がつくと、柴田勝家は、妻と娘たちを逃がそうとしました。妻は、織田信長の妹で、以前は浅井長政の妻だったお市の方です。お市の方は3人の娘を逃した後、私もお供いたします。と柴田勝家に微笑み、2人は燃え盛る炎の中で自ら命を絶ったのでした。この賤ヶ岳の戦いは、前田利家の柴田勝家と豊臣秀吉との間で揺れ動く心の結果が戦果に直結した戦いでもあったといえるでしょう。
この記事へのコメントはありません。