【村上武吉】戦国最強海賊軍団の武将が織田信長に勝利した真実とは

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【村上武吉】戦国最強海賊軍団の武将が織田信長に勝利した真実とは

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戦国時代において瀬戸内海を行き交う船を恐れさせていたのが村上水軍と呼ばれる海賊でした。村上水軍は、野島、水軍、来島、水軍、因島水軍の3つのグループに分かれていました。村上武吉は能島水軍のリーダーでした。戦国最強の海賊とまで言われた村上武吉が率いた村上水軍。そのヒストリーとはどのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、戦国最強の海賊頭領、村上武吉に注目します。


「村上武吉のプロフィール」

  • 出身地:伊予、現在の愛媛県
  • 生年月日:1533年
  • 死亡年月日:1604年8月22日
  • 享年:72
  • 運命の戦い:木津川口の戦い

「謎が多い海賊頭領の村上武吉の幼少期」

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平安時代に瀬戸内に勢力を張ったとされる村上源氏の子孫とされていますが、不明のようです。1508年、能島の内乱が生じます。大内義興が京に入った時に中国地方の大名たちも従属。そして、村上武吉の曽祖父に当たる能島雅房も京に上って子供を作ったとされています。そして、この子供が能島の子供と家督争いをすることになります。これが能島の内乱です。村上武吉は、幼いころに祖父の村上隆勝を暗殺されています。その際に命を狙われたために肥後国の菊池氏に頼ります。その後、能島に戻りますが叔父の村上隆重の支援によって来島勢を破って能島の当主となりました。また来島とは、後に和議を結んでいます。そして、村上通泰の娘をめとり村上三島の頭領格となります。


「村上武吉の海賊は如何にして栄えていたのか」

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1555年に起きた厳島の戦い(毛利元就と陶晴賢の戦い)では、「一日だけの味方」という言葉の誘いに乗って毛利方に加担します。その後、毛利元就との関係を深めたとされています。そして、この時以降、毛利氏の周防・長門の平定に協力して瀬戸内海一の水軍勢力となります。さらに村上水軍は瀬戸内海の各所に関所を作っていき、通行する船から帆別銭(通行料)をとっていました。通行料払うと村上水軍から過所旗がもらえました。この端をかけたくには村上水軍に他の海賊などから守ってもらうことができました。このようにして村上武吉は栄えていきます。


「裏切りの代償は大きかった」

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1569年に毛利元就が九州攻めに失敗。この頃、村上武吉は大友氏や三好氏との関係を深めていきます。そして、大内輝弘の乱の際に大友水軍に伊予灘を素通りさせました。こうした行動に対して毛利元就は1570年に毛利元就、毛利輝元、小早川隆景の三者が起請文を村上武吉とかわして互いの関係性を確認しています。

1571年2月になると村上武吉は、毛利氏に対して関係は悪化し敵対関係となります。毛利氏と敵対関係にある浦上宗景が本太城に兵を入れて、毛利方の児島守備隊の背後を脅かします。そのために小早川隆景が本太城討伐の兵をあげて4月に陥落させています。7月には小早川隆景が能島攻めの軍を起こします。これに対して村上水軍の来島・因島の水軍は小早川隆景に従軍。このため村上武吉は、孤立。1572年には能島は包囲されて海上封鎖されてしまいます。こうした結果、大友宗麟(大友義鎮)が来島水軍と村上武吉との講和を仲介。さらに門司・赤間、伊予へと出兵して毛利を脅かすと約束。そのようにして能島水軍と反毛利同盟を繋ぎとめようとする。しかし、空手形であったために村上武吉は毛利氏との関係修復のために動いていきます。

1575年2月に備中兵乱の平定に関して村上武吉は小早川隆景に修義を送って毛利氏との関係を修復していたと思われます。


「村上武吉の運命の戦いとなった木津川口の戦い」

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1576年7月13日に第一次木津川口の戦いが勃発した際には、村上武吉は参戦していませんが嫡男の村上元吉が出陣。村上水軍は小早川、児島、乃美の水軍と毛利方水軍に入っての参戦。織田信長との戦いでしたが、主力として大勝利を挙げています。

1578年11月、第二次木津川口の戦いでは、織田信長の家臣である九鬼義隆が鉄船を作ります。そして鉄船6隻と戦うことになり惨敗となっています。

1582年に本能寺の変が起きます。この時以後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が毛利元就と和睦。村上武吉は占領していた来島を毛利氏から返還するように要求されます。しかし、拒否。さらには四国攻めにも参戦せず。そのために小早川隆景から侵攻されて能島を明け渡すこととなります。しかも、小早川隆景の所領である竹原(現在の広島県竹原市)に移住させられます。

1588年には豊臣秀吉の海賊停止令に背いたとして豊臣政権から詰問を受けて、嫡男の村上元吉が上洛して弁明する事態となっています。これ以降、小早川隆景の命に従い筑前国に移っています。そして小早川隆景の跡を養子の小早川秀秋が継ぐと毛利家の家臣となっています。その後、毛利氏所領である長門に移動、豊臣秀吉の死後には再び、竹原に戻っています。

1604年8月22日に72歳で死去しています。


「村上武吉は秀才な海賊だった?」

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戦国時代瀬戸内海を行き交う船を恐れさせていたのが村上水軍と呼ばれる海賊でした。村上水軍は、野島、水軍、来島、水軍、因島水軍の3つのグループに分かれていました。村上武吉は能島水軍のリーダーであり、村上水軍は毛利氏の水軍として活躍し、織田信長の木津川口、現在の大阪府で2回戦いました。1回目は小早と呼ばれる小型船による攻撃で勝利しましたが、2回目は織田信長の鉄甲船の前に破れてしまいます。本能寺の変の後、豊臣秀吉から海賊取締令(海賊停止令)が出されて、村上武吉は追放されるものの、後には豊臣秀吉から豊臣姓を受けています。実際のところ海賊ゆえにワイルドで荒っぽい印象がありますが、多くの連歌会を催しており、村上武吉自身も連歌を沢山残しているために武力だけでなく優れた教養も身に着けていたと言われます。それでも、キリスト教のイエズス会の宣教師ルイス・フロイスからは日本最大の海賊と述べています。

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