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【中川重政】織田信長の重臣として多く武功を挙げた謎の武将の真相
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戦国武将の天下の覇王と称される織田信長の重臣でありながら詳細不明で謎が多い武将とされているのが、中川重政です。主だった主君や将軍に従軍して大きな戦にも参戦していた中川重政。その生涯とは一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、織田信長に仕え続けた中川重政に注目します。
「中川重政のプロフィール」
- 出身地:駿河
- 生年月日:詳細不明
- 死亡年月日:詳細不明
- 運命の戦い:三方ヶ原の戦い
「織田信長の重臣にして詳細不明の謎多き武将」
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中川重政の父は、織田刑部大輔で織田信長の叔父である織田信次の孫にあたるといわれているものの、年代的に疑問視されており不明です。弟には、津田盛月、木下雅楽助、津田正勝などがいるとされています。中川重政は初め織田駿河守、または越前守と称しています。その後、中川治郎左衛門伊治の養子となり、中川八郎左衛門と称したとされます。そして、織田信長に仕える身となり、尾張国統一に貢献したために黒母衣衆に任じられます。
1568年9月には、織田信長の上洛以降、京畿の所務担当者として明智光秀、木下秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀らと連判状を頻繁に出しています。
1569年、大河内城攻めで織田信長の馬廻の一人であったために軍事的には、これらの重臣たちとは大きな隔たりがあったようです。
1570年に琵琶湖周辺の城に織田信長が六角義賢らの残党に備えて重臣を配置した際には、安土を任されています。この事実は、部隊指揮官の地位に昇格していたことを示していました。しかしながら、長光寺城の柴田勝家と領地が隣接していたために複雑に入り組んでいた利権を巡って争い、弟の津田守月が柴田勝家側の代官を殺害したことから、織田信長の怒りに触れて弟と共に改易されています。しかも、徳川家康の許に追放処分に処されてしまいました。この時、剃髪して土玄と号しています。
1572年12月の三方ヶ原の戦いが勃発していますが、徳川家康に従軍して武田信玄の軍勢と戦っています。
1573年になると、織田信長から罪を許されて召喚されています。その後、織田信長から安土城の城代に任じられましたが、以前のような地位を取り戻すことはありませんでした。それゆえに合戦などの表舞台に立つことはなかったようです。
1584年の小牧・長久手の戦いが勃発した際、その時には織田信長が死去していたために織田信雄に仕えて、従軍し犬山城を守備しました。池田恒興の攻撃に敗れました。その後の行方は、不明で中川重政の歴史は謎のままです。ちなみに、子供の中川光重は前田利家の婿として加賀藩に仕えています。
「三方ヶ原の戦いで中川重政が従軍した将軍の失態とは」
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- 三方原の戦い
- 武将:武田信玄
- 武田軍戦力:約2万7000人
- 武将:徳川家康
- 徳川軍戦力:約11,000人
- 勝者:武田軍
1572年、天下統一を狙う甲斐、現在の山梨県の武田信玄は、約2万7000人の大群で京都へと向かった。そして徳川家康の領地遠江現在の塩静岡県に入ってきたのでした。徳川家康が同盟を結んでいたのは織田軍。織田信長に助けを求めたものの、応援はなかなか来ませんでした。翌年、武田信玄は三方原まで進軍してきました。これを知った徳川家康は、「黙っていては武士としては恥ずかしい。」と武将として応戦の動きを見せます。徳川家康は約11,000人の兵士を集めて、武田軍を追いかけたのです。しかし、この動きを予想していたのは百戦錬磨の武将・武田信玄でした。そして、武田軍は引き返して徳川家康の軍勢を待ち構えることにしたのです。徳川軍が現れると山形昌景に猛攻撃をさせる指示を出します。たちまち徳川軍は総崩れとなりました。この武田信玄の戦法と戦力に徳川家康は恐怖で大便を漏らしたということです。そして、大便を漏らしながら浜松城に逃げ戻ったというのです。さらに徳川家康は帰るなり、城を開け放ち門の前で火を焚き、太鼓を鳴り響かせたんぽでした。この出来事に対して武田軍の追ってきた山県昌景らは何かわながあるのではと考え引き返して行ったのでした。こうして、徳川家康は死を免れることができたのでした。
三方原の戦いの流れ
- 1:徳川軍が武田軍を追っていく。武田信玄は軍を率いて徳川家康の領地を震源した。これに起こった徳川家康が軍を率いて武田軍を追いかけることにした。
- 2:武田軍が引き返す徳川家康が追いかけてくることを予想していた。武田信玄は引き返して徳川軍を待ち構えていた。そして徳川軍が現れるとすぐに攻撃を仕掛けた
- 3:徳川家康が戦場から逃げる。武田軍の激しい攻撃で徳川軍は総崩れになり、徳川家康は命辛々浜松城今の静岡県へと逃げ帰ったのでした。この際あまりの恐ろしさに徳川家康は大便を漏らしたと言うことです。そしてこの時徳川家康は試練に逃げ帰った時、自分の情けない姿を描かされることにしました、そして、かっとなったら、この絵を見て自分を抑えることにしようと冷静さを取り戻すことができるようにしたのでした。
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