【丹羽長秀】織田信長に信頼され成功した人望厚き万能型の戦国武将

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【丹羽長秀】織田信長に信頼され成功した人望厚き万能型の戦国武将

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戦国時代において万能型武将として、どのような仕事もこなした織田信長の家臣が丹羽長秀。織田信長に最も信頼され、安土城の築城も行った優秀な武将の一人です。丹羽長秀なくして織田信長の躍進、豊臣秀吉の天下への歩みはなかったことでしょう。その生涯には興味深いものがあります。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、戦国時代の万能型武将として活躍した丹羽長秀に注目します。


「丹羽長秀のプロフィール」

  • 出身地:尾張、現在の愛知県
  • 生年月日:1535年
  • 死亡年月日:1585年4月16日
  • 享年:51(病死)
  • 運命の戦い:山崎の戦い

「万能型武将であり城作りの名匠でもあった丹羽長秀」

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丹羽長秀は、尾張、現在の愛知県の生まれ、若い頃から、織田信長に仕えていました。1550年より丹羽長秀は織田信長に仕えました。

1553年、稲生の戦いでは、織田信長の方に付きました。

1560年、桶狭間の戦いが勃発。今川義元の攻撃部隊には入っていませんでしたが、従軍しています。

1568年に、足利義昭を奉じて、織田信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で武功を挙げました。

姉川の戦いの直後から、織田信長は、8ヶ月に及ぶ近江佐和山城の方位を続けましたが、1571年2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって丹羽長秀が佐和山城主となりました。

1573年8月に朝倉義景討伐に参戦しました。

1573年9月、丹羽長秀は若狭一国を与えられ、織田信長の家臣で最初の国持大名となりました。さらに軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても丹羽長秀が担っていました。
その後、丹羽長秀は、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆征伐など、各地を転戦して武功を挙げました。さらに丹羽長秀は、軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の総奉行を務めるなど多大な功をあげています。長篠の戦いでは手柄を立てたいます。織田信長から「丹羽長秀は友であり、兄弟である」と信用され、織田信長の家臣では、最初に国を与えられ、若狭、現在の福井県を支配する大名となりました。丹羽長秀は、政治家としてもすぐれどんな仕事でも自分の役目をきちんとこなしたと言われています。特に安土城、現在の滋賀県の建設では、中心となって働きました。そのためか、自分が先頭に立つよりも、他の武将を助けて働くことが多くなっていました。丹羽長秀は、「五郎左衛門」という名前もあり、織田信長にとって「米」のように、大切な存在という意味から「米の五郎左」と呼ばれたそうです。

1579年、羽柴長秀とともに丹波に攻め込み、氷上城の波多野宗長に勝利しました。

1582年6月に本能寺の変が起きます。丹羽長秀は、織田信孝を補佐し、明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害しています。その後、織田信孝と羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで明智光秀を討ちました。本能寺の変に際して大坂で四国出陣の準備中だった、丹羽長秀と織田信孝は、明智光秀を打つには最も有利な位置にいたが、織田信孝とともに岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けていました。このため大将不在の時に本能寺の変の知らせが届いたことで、四国派遣軍は混乱し、織田信孝と丹羽長秀の軍は兵力が激減し、大規模な軍事行動に移る事はしませんでした。それで丹羽長秀と織田信孝はやむを得ず守りを固めて、羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ織田信孝としたものの、もはやその後の局面は羽柴秀吉の主導に任せるしかありませんでした。清洲会議で丹羽長秀は池田恒興とともに羽柴秀吉が織田信長の後継者に推す、織田信長の嫡孫である三法師を指示しています。結果として、諸将が秀吉による織田家の事業継続を認める形となりました。羽柴秀吉と柴田勝家が天下を争った1583年。これは賤ヶ岳の戦いです。この際、丹羽長秀は羽柴秀吉を援護しました。戦後、若狭国と近江国志賀、高島ニ郡の代わりに、越前国及び加賀国江沼、能美ニ郡を与えられ、越前国北庄に入部しました。織田信長の後継者の地位をめぐって、豊臣秀吉と柴田勝家が争った、賤ヶ岳の戦いでは、豊臣秀吉側について勝利を収めました。越前、現在の福井県や加賀、現在の石川県等を与えられ、約1,230,000石の大名になりました。

1585年4月16日、丹羽長秀は積寸白という寄生虫病で死去しました。享年51。


「安土城の築城を果たした丹羽長秀」

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丹羽長秀は、安土城作りを指揮しました。事務能力に大変優れていた丹羽長秀は、織田信長が安土城を築く時、最高責任者に任命されました。安土城は、日本で初めて天守を作ったり、山全体を石垣で囲んだりするなど、織田信長の大胆なアイディアが詰め込まれた城でした。安土城を築くのはとても難しいものでしたが、丹羽長秀は見事に完成させました。


「明智光秀の最期・山崎の戦いに参戦」

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山崎の戦い(天王山の戦い)・1582年

「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍」

戦力:20,000~40,000

武将:羽柴秀吉(羽柴秀長、黒田孝高、20,000)、織田信孝(4,000)、池田恒興(5,000)、丹波長秀(3,000)、高山右近(2,000)、中川清秀(2,500)

「明智光秀の軍」

戦力:10,000~16,000

武将:明智光秀(5,000)、斎藤利三(2,000)、伊勢貞興(諏訪盛直、御牧兼顕、2,000)、松田政近(並河易家、2,000)、阿閉貞征(溝尾茂朝、3,000)、小川祐忠利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。

12日ごろ、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣します。羽柴軍は高山右近の隊、中川清秀の隊が山崎の集落を占拠して最前線に着陣します。そして、池田恒興の隊が右翼、羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の隊が天王山の山裾の旧西国街道に沿った形で布陣。秀吉の本陣は後方の宝積寺に陣取ります。

この羽柴軍の布陣に対して明智軍は、御坊塚に明智光秀の本陣、その前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。これは、大軍が山崎の天王山と沼の間の狭い空間を抜けるためには、限られた場所しかなく、その出口を塞ぐ形の陣形となっていました。

翌日の13日16時ごろに事態は動きます。天王山の山裾を横切って高山右近の隊の横に陣を取ろうとして移動していた中川清秀の隊に対して斎藤利三の隊の右側に布陣していた伊勢貞興の隊が攻撃。これに加えて、斎藤利三の隊も高山右近の隊を攻撃し、山崎の戦いの戦闘が開始します。高山右近、中川清秀の両隊は劣勢となる中、秀吉の本隊から送られてきた堀秀政の手勢が窮地を救います。天王山の山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の部隊は前方に展開し、高山右近、中川清秀の両隊の側面を突こうと天王山の中腹を進撃してきた松田政近、並河易家の両隊を交戦します。

その後、淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰の両隊が円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。この攻撃によって津田信春の隊に混乱が生じます。さらに織田信孝、丹波長秀の隊が右翼から一斉に明智光秀の本隊の側面を突く形で攻撃。この状況の中、苦戦を強いられていた高山右近、中川清秀の両隊も斎藤利三、伊勢貞興の両隊を押し返し、動揺が広がった明智軍は総崩れとなったのでした。この頃、御牧兼顕は「我討死の間に引き拾え」と明智光秀に使者を送ります。そしてその後、羽柴軍に壊滅させられます。明智光秀は戦線の後方の勝龍寺城に退却。しかし、主力となっていた斎藤利三の隊が壊走して戦線離脱します。また殿をした伊勢貞興、黒田孝高と交戦していた松田政近が討死にします。こうして明智軍は大きな打撃を受けたのでした。その数は700余りにまで減衰していました。

こうした戦況となり、明智光秀は勝龍寺城の北門から脱出し居城の坂本城を目指します。しかし、小栗栖の藪(現在の京都市伏見区、明智藪)で農民の落ち武者狩りに遭遇し竹槍で刺されて殺害された(その場は凌いだものの力尽きて家臣の介錯によって自害したともされている)とされています。

6月14日に明智光秀の首は羽柴軍に届き、京都の本能寺で晒されました。

そして、羽柴秀吉は勝龍寺城に入り、堀秀政を近江への交通路遮断、明智光秀の捜索に派遣。打出の浜で明智秀満の軍を撃破。さらに坂本城で明智秀満は、溝尾茂朝、明智光忠と自刃します。高山右近、中川清秀の両隊は丹波亀山城に向かい、明智氏を滅ぼします。

6月16日になると羽柴軍は、長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎片家などを降伏または逃亡によって近江を平定します。

6月17日、斎藤利三が生け捕りにされ六条河原で処刑されました。

こうして山崎の戦い(天王山の戦い)は、羽柴軍が勝利します。そして、清州会議で織田信長の後継者としての地位を固め天下統一の道を歩み始めるのです。

7月19日の清州会議の後、最後の明智光秀方の将である武田元明が丹波長秀に攻められて自刃、京極高次は竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏。

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