【武将ワールド】ヤンキーから天才戦国覇王へ・織田信長の最新資料

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【武将ワールド】ヤンキーから天才戦国覇王へ・織田信長の最新資料

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天性の戦の才能を賜っていたとも言われる天下統一を目指した天才戦略家・織田信長。最も有名な戦国武将であり、現代までに数多くの伝説も伝えられている偉大な人物でもあります。しかしながら、織田信長は幼少期から青年期まで意外な一面も持ち合わせていたようです。実は織田信長は、尾張の大うつけ(大バカ者)と呼ばれていたというのです。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、天才戦国覇王・織田信長についてまとめてみました。


「織田信長のプロフィール」

  • 出身地:尾張(現在の愛知県)
  • 生年月日:1534年(誕生日は不明)
  • 死亡年月日:1582年6月2日
  • 享年:49歳(自刃)
  • 運命の戦い:桶狭間の戦い

「生まれながらの天才・信長は世間の嫌われ者だった」

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織田信長は尾張、現在の愛知県の戦国大名・織田信秀の子に生まれ、織田家の後継者として期待されました。当時、隣の国の美濃、現在の岐阜県では斎藤道三が力をつけてきていた。織田信秀は斎藤道三と戦うが敗北してしまった。織田信長と斎藤道三の娘である濃姫を結婚させることで、斎藤道三と仲直りした。その頃の織田信長は、着物は片袖を脱ぎ、丈の短い袴を履いて村の若者と遊び呆けていた。織田信長は、家臣や街の人から「尾張の大うつけ(ばか者)」と呼ばれていた。


「地元ではヤンキーだった少年時代の織田信長」

織田信長は10代後半、変わった服装が好きでした。着物は片袖を脱ぎ、丈の短い袴をはき、腰には、ひょうたん、火打石を入れた袋などをぶら下げていたということです。この姿で牡蠣や瓜などを食べ、歩きながら街を歩いていました。それで街の人たちは、織田信長のことを尾張の大うつけ、馬鹿者、現代で言うヤンキー、アウトローと呼んでいました。父親の織田信秀が病死すると、葬式に現れた。織田信長は、抹香(焼香に使う粉)を仏壇に投げつけたと言う。それで町の人から「やはりうつけ(馬鹿者)だ」と言われていた。この葬式の件で古い家臣は、織田家を去りました。そして家は弟が継ぐべきとの声も上がっていきました。その後、織田信長派と弟はの争いが起こりました。勝利したのは織田信長だったのです。


「実は慎重な天才戦略家の織田信長」

1560年、織田信長27歳の時に駿河、現在の静岡県の今川義元が天下統一を目指し、大群を率いて尾張に入ってきた。家臣が慌てふためく中、織田信長は黙って作戦を練りました。織田信長の作戦は功を奏します。織田信長は桶狭間、愛知県で休んでいた今川義元の本陣に少数の兵で奇襲攻撃で襲い掛かり、今川義元を討ち取ることに成功したのです。このことに織田信長の家臣たちは、興奮で湧き立ちました。そして、桶狭間の戦いについては、織田信長の戦術に大きな変化をもたらしたとも言われています。約2000人という少数精鋭部隊で奇襲攻撃を行い、天才戦術家としての才能を発揮して大勝利をおさめましたが、この戦い以降、織田信長の戦術は、奇襲など大胆で大きなリスクをとることはなく、慎重かつ緻密な計算に基づく天才的な戦術によって勝利を重ねていくのです。


「天下布武宣言で室町幕府に終止符を打つ」

この桶狭間での勝利を後に織田信長の名は、全国に広まっていきました。織田信長は斎藤道三の孫である斎藤龍興を倒し美濃を手に入れました。そして天下布武(天下を治める)と記した印を使い始め、天下統一を宣言したのです。ちょうどその頃、室町幕府12代将軍・足利義晴の子である足利義昭が織田信長を頼ってきました。足利義昭は、織田信長の力を借りて、室町幕府を立ち直らせたいと考えていたのです。織田信長も兵士を連れて京都に入る理由が欲しかったので、足利義昭を15代将軍に仕立てあげました。しかし、京都に入った織田信長は、足利義昭を無視して、自分自身で政治を行ったため、足利義昭は不満を持つことになります。足利義光は、織田信長の天下統一を邪魔してやろうとして、越前、現在の福井県の朝倉氏、近江、現在の滋賀県の浅井氏、比叡山延暦寺、石山本願寺など手を組み、織田信長に反乱起こしたのです。このために織田信長は石山本願寺と戦いを始めることになります。そして1573年足利義昭を破って京都から追放し、室町幕府を滅ぼすことに成功したのです。これに続いて朝倉氏、浅井氏を滅ぼしていきます。


「戦国時代最強の武田軍を最新兵器で打ち破る」

織田信長に挑んできたのは甲斐、現在の山梨県の、武田勝頼(武田信玄の子)でした。武田信玄が作った武田騎馬隊は、戦国時代最強の騎馬隊と言われ、武田勝頼が引き継いでいました。織田信長はこの武田騎馬隊に勝つために作戦を練ります。そして当時、最新兵器と言われた鉄砲しかないと考えました。若い頃から興味を持っていた火縄銃を大量に作らせて鉄砲隊を組織したのです。そして長篠現在の愛知県で武田騎馬隊を滅ぼすことに成功したのです。武田騎馬隊に勝利し、勢いに乗った織田信長は、琵琶湖、滋賀県のほとりに安土城を築きます。この安土城は、日本で最初に天守、城の中央にそびえる櫓を持つ美しい城でした。城下町では、自由な商業活動認め、経済が大いに発展していきます。


「目前で幻となった天下統一は本能寺の変にあり」

天下統一が目前に迫った1582年、織田信長は中国地方の毛利氏を討つためにに安土城を出発します。途中で宿泊したのは京都の本能寺でした。ところが家臣の明智光秀に突然、襲われます。下剋上とされた有名な本能寺の変です。織田信長は、明智軍と戦いましたが、燃え盛る炎の中で自ら命を断ったのです。こうして戦国の覇王は戦いの最中、生涯を終えたのでした。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。