【雑賀孫一】戦国鉄砲隊として無敵の最強兵器を手に織田信長に圧勝

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【雑賀孫一】戦国鉄砲隊として無敵の最強兵器を手に織田信長に圧勝

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戦国時代天下の覇王と呼ばれた織田信長を苦しめた武将が雑賀孫一。戦国時代において最強の武器である鉄砲を大量に製造し、雑賀鉄砲隊を結成し、名だたる戦国武将を震撼させた鉄砲隊。後には、織田信長の天下統一のために戦略にも大きな影響を与えたと言われています。しかしながら、なぜ雑賀孫一は最強の武器を手にしながら天下を獲ることはできなかったのでしょうか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、最強兵器の武将である雑賀孫一(鈴木孫一)に注目します。


「雑賀孫一のプロフィール」

  • 出身地:紀伊、現在の和歌山県
  • 生年月日:1534年
  • 死亡年月日:1589年
  • 享年:56 (病死)
  • 運命の戦い:和歌川の戦い(雑賀合戦)

「味方に付ければ敵なしの最強の雑賀孫一鉄砲隊」

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1543年に種子島現在の鹿児島県に伝わった鉄砲合戦の戦い方を変えた。この武器をいち早く集団で使ったのが雑賀孫一の率いる雑賀衆でした。この雑賀衆とは、紀伊、現在の和歌山県を拠点に活動した鉄砲集団で鉄砲を数多く備え、上手に鉄砲打つことができました。孫一は、味方になった部署の戦いに参加し、雑賀衆を味方にすれば勝ち、敵にすれば負けると言われました。雑賀孫一は雑賀衆のまとめ役であり、リーダー格でした。雑賀衆の鉄砲集団傭兵の隊長であり、各地の戦いで活躍しました。雑賀衆には、浄土真宗(一向宗)の信者が多くいました。そのため、浄土真宗の石山本願寺(大阪府)から助けを求められ、石山本願寺の敵、織田信長と戦うことになりました。雑賀衆と友好的だった石山本願寺からの救援ということもあって、いち早く石山本願寺の救援に向かい、織田信長の追っ手が石山本願寺の法主、顕如に迫ると、わずかな手勢で10,000を超える織田信長の軍を相手に決死の戦いを繰り広げたのです。鉄砲を使った先進的な戦術で織田信長の軍を撃破し、石山本願寺、左右の将と称えられます。さらに雑賀衆、相手に苦戦していくのは織田信長でした。100,000と言う大勢の大群で、雑賀衆の拠点である紀伊に攻め込みました。雑賀孫市は川の底にツボ等を埋めて待ち伏せしました。そして、川を渡ろうとする織田信長の軍が川底に足を取られたところ、一斉に射撃して織田信長の軍を破ったと言われています。これは和歌川の戦いと言われます。その後、豊臣秀吉が100,000の大群で紀伊に攻め込み、雑賀孫一らを水攻めにしました。雑賀孫一と雑賀衆は、これによってついに降伏したのです。豊臣秀吉の配下となりました。豊臣秀吉が雑賀衆を攻めた際には降伏を進める使者となり、取り次ぎ役を進めました。その後、豊臣秀吉の軍の鉄砲頭となり朝鮮出兵では九州を守りました。関ヶ原の戦いでは、西軍の豊臣秀吉側として、京都の戦いで徳川家の重臣である鳥居元忠を討ち取りました。しかし、西軍が敗戦したため、領地を失い浪人となってしまいます。その後、東北の大名である伊達政宗に取り立てられ、雑賀衆に伝わる騎馬鉄砲術を伝授しました。その後、伊達政宗の執り成しで徳川家に使え、晩年は水戸徳川藩の旗本として余生を過ごしました。


「織田信長が天下の覇王となれたのは雑賀孫一がカギ」

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織田信長は、雑賀孫一から鉄砲の技術を学びました。雑賀孫一の率いる雑賀衆が石山本願寺に味方したため、織田信長は石山本願寺と10年以上も戦うことになったと言われています。この戦いの最中の1575年織田信長は長篠の戦いで大量の鉄砲使って武田騎馬隊に勝利することができました。この作戦は雑賀孫一との激しい戦いから学んだと言われています。


「運命の戦いとなった雑賀合戦太田城攻め」

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1570年に織田信長と石山本願寺の間で石山合戦が勃発。この石山合戦は長期化していきますが、その理由は、雑賀孫一が率いていた雑賀衆にありました。当時、雑賀衆は石山本願寺のの主力部隊として参戦しています。さらに紀伊国は鉄砲の製造技術にも優れ、貿易港として機能していました。そのために石山本願寺の軍勢の後方支援を行っていたのです。しかしながら織田信長が雑賀衆が複数の勢力に分かれていることに着目して切り崩し作戦を実行。この作戦によって雑賀衆は半数が織田信長の勢力に寝返ります。それに加えて雑賀衆と肩を並べる実力を誇っていた根来衆に加勢を要求して紀州征伐に向けて策略を練っていました。

1577年に織田信長の嫡男の織田信忠が率いる約10万の軍で紀州に侵攻。海沿いと山沿いの二手に分かれて雑賀孫一の居城である雑賀城に進軍します。この織田信長の軍に対して雑賀孫一の軍は2000の手勢でした。

圧倒的な戦力の差がありましたが、雑賀孫一はゲリラ戦を仕掛けて織田信長の軍を翻弄します。織田信長の軍が進軍してくる前に対陣した和歌川に壺や枝のついた倒木などを組み合わせて障害物を沈めていたのです。そのために和歌川を渡るために進軍してきた織田信長の軍は、和歌川に入るなり足をすくわれ足止めされてしまいます。そこに雑賀鉄砲隊が一斉射撃。これによって織田信長の軍は甚大な被害を受けて撤退しました。その後、半年して再び織田信長の軍と雑賀衆が第二次雑賀合戦で衝突。ここでも、雑賀孫一が率いる雑賀衆は、織田信長の軍、8万の兵力に対して返り討ちに成功しています。織田信長は、結局のところ最後まで雑賀衆を討つことができずに石山本願寺との石山合戦は終結しています。

その後、本能寺の変の3年後の1585年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が紀州征伐に踏み切ります。羽柴軍は10万の兵力で侵攻。しかしながら苦戦を強いられて1万人の戦死者を出しています。それでも羽柴軍は雑賀孫一の籠城した太田城に対して水攻めで攻略。太田城の周囲を守る河川を利用して堤防を築いて人口水害による消耗戦を決行したのでした。これによって雑賀衆は抵抗するものの、4月22日に降伏して終結しました。

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管理人:TMM

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