【斎藤道三】芸人から戦国武将になった美濃国のマムシと呼ばれた男

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【斎藤道三】芸人から戦国武将になった美濃国のマムシと呼ばれた男

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戦国時代の武将の中で毒を持つマムシのように恐れられていたのが、美濃国のマムシという異名を持つ美濃国の武将、斎藤道三です。武将としての実力も高く、斎藤道三の時代に完全に美濃国の平定を行います。その後、天下の覇王となる織田信長の義父となり勢力を拡大。織田信長の天性の賜物を見極めるほどの洞察力を持っていたとされる斎藤道三とは一体、どのような人物だったのか。今回の「TimeMachineMuseum」では、美濃国のマムシの異名を持つ斎藤道三に注目します。


「斎藤道三のプロフィール」

  • 出身地:山城、現在の京都府
  • 生年月日:1494年
  • 死亡年月日:1556年4月20日
  • 享年:63 (戦死)
  • 運命の戦い:長良川の戦い

「手品で商売繁盛。そして芸は武芸達人となる」

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織田信長が尾張、現在の愛知県に生まれる10年ほど前、隣の実現在の岐阜県に芸の得意な油売りとして有名だった人物、それが斎藤道三でした。斎藤道三は、1494年に山城乙群西岡(現在の京都府)に生まれています。幼名は峰丸。11歳の春になると京都の妙覚寺で法蓮房の名で僧侶となっています。その後、油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとって前述にあるように油商人となり山崎屋を称します。また商売上手で有名になります。その商売方法は、技を見せる実演販売。油を注ぐときに漏斗を使用せず、一文銭の穴に通して見せ、油がこぼれたらお代はいただきません。という技でした。この実演販売の技を見た土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮は商人の技であろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われたことがきっかけとなり、斎藤道三は商人をやめて、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったということです。その後、武士になった斎藤道三は、出世を夢見て実の有力武将だった長井長弘に仕えて家臣となりました。そして、斎藤道三は武芸を磨き、守護(地方を支配する室町幕府の役職)の土佐頼芸に気に入れられました。


「裏切りの美濃国のマムシと恐れられ勢力を拡大」

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1527年8月に斎藤道三は、長井長弘と土佐頼芸と手を組み、土佐頼芸と対決していた兄の土佐頼武を革手城に奇襲をかけて追放しています。そして、土佐頼芸の1番の家臣に成り上っていきます。

1533年になると斎藤道三は、長井長弘を殺害し、長井家を自分のものにして成り上がっていきます。

1538年に美濃の守護代(守護の仕事を代行する役職)だった斎藤利良が病死したために斎藤家を継ぐことになります。

1539年に居城の稲葉山城の大改築を行います。

1541年になると、土岐頼芸の弟である土岐頼満を毒殺。この事件がきっかけで土岐頼芸とも対立することになります。

1542年、ついに斎藤道三は、土岐頼芸の居城である大桑城を攻めて土佐頼芸までも追放します。このように主君を次々と裏切り追放して美濃国を手に入れました。美濃国を手にした斎藤道三は、美濃のマムシと人々から恐れられました。

1547年9月に加納口の戦いが勃発。これは、織田信秀が稲葉山城に侵攻してきたことで起こります。斎藤道三は、こお織田信秀の侵攻に対して籠城戦の戦略を実行し織田軍を壊滅寸前にまで追い込むことに成功します。そして、織田信秀と和睦することになります。

1548年、斎藤道三は娘である濃姫と織田信秀の嫡子である織田信長と結婚させます。そして、織田信長と出会います。織田信長の能力を見抜いた斎藤道三は、いずれ自分の子達は織田信長の家臣になるだろうと語ったと言われています。この姻戚関係を結ぶことによって織田家とは和睦し、織田家の後援を受けることができるようになり、斎藤道三に反抗していた相羽城主の長屋景興や揖斐城主の揖斐光親を滅ぼしています。

1552年になると土岐頼芸が揖斐北方城に留まっていましたが、尾張へ追放し美濃国の平定を完全なものにしました。

1554年2月22日~3月10日に子供の斎藤義龍に斎藤家の家督を継がせます。斎藤道三は鷲山城で隠居しています。

その後、斎藤道三は家督となった息子の斎藤義龍よりも弟の孫四郎や喜平次たちを偏愛し、斎藤義龍の廃嫡を考え始めます。そのために斎藤義龍と不破が生じて戦うことになります。

1555年に斎藤義龍が弟たちを殺害し父である斎藤道三に対して挙兵。

1556年4月18日には、長良川の戦いが勃発。斎藤道三は、美濃国を譲ると書いた遺言書を織田信長に送った後、斎藤義龍に破れて戦死しました。享年63でした。こうして、美濃国のマムシと恐れられた斎藤道三の生涯は終わりを迎えました。


「運命の戦いとなった長良川の戦い」

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斎藤道三:戦力2700余り

斎藤義龍:戦力17500余り

*兵力が少ない理由は斎藤道三が、これまでに主君を数々の裏切り、その恩を仇で返すという行為の積み重ねが身に降りかかった。長井家や土岐家の旧家臣たちは斎藤道三の味方にはなりえなかった。

1556年4月18日、斎藤道三は鶴山に布陣。そして、斎藤道三の娘婿の尾張の織田信長も大良(現在の岐阜県羽島市)の戸島に布陣。

1556年4月20日に斎藤義龍の軍が長良川の南岸に動きを見せたのに応じて斎藤道三の軍は鶴山を下りて長良川の北岸に移動し開戦となりました。合戦は斎藤義龍の先手である竹腰道鎮の5000の兵が突撃。竹腰の隊は円陣を組んで長良川を押し渡り、斎藤道三の本陣に迫ります。そして、旗本に斬りかかるところまで接近。乱戦となる中、斎藤道三の指揮で竹腰の隊は敗走し、旗本によって竹腰道鎮は討ち取られます。それを見た斎藤義龍は、自ら旗本を率いて長良川を越えて陣を固めます。この時に斎藤義龍の軍から長屋甚右衛門が一騎討ちを挑み、斎藤道三の軍から柴田角内が応じます。この一騎討ちの勝負は、柴田角内が長屋甚右衛門の首を挙げたことで決着します。そして、それを機に両軍が全軍で突撃を命じました。斎藤道三の軍は緒戦こそは優勢でしたが、兵力2700では劣勢になり斎藤道三の軍は崩れてしまいます。長井忠左衛門道勝が生け捕りにして斎藤義龍の前に引き据えようと突進。斎藤道三に組み付き、もみ合いとなります。その所に小牧源太が斎藤道三の首を斬り落としました。こうして、長良川の戦いは終戦を迎えることとなりました。ちなみに参戦していた織田信長の軍は、合戦に間に合うことができませんでした。


「斎藤道三と織田信長の会見したときの逸話」

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織田信長は、斎藤道三と初めて会う時、「おおうつけ(バカ者)」と呼ばれた派手な格好で会見場に向かい到着するときちんとした服に着替えました。素早い変化に斎藤道三は驚き、織田信長の凄さに感心したと言うことです。

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管理人:TMM

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