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【斎藤龍興】熱心なキリスト教武将は聖書を愛して平和と戦争に苦闘
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天下の覇王と呼ばれた織田信長が仕えていた美濃国の戦国大名の斎藤道三の孫が斎藤龍興です。若くして家督となり戦国武将として渡り合っていく中、その生涯は織田信長との攻防が大半を占めています。そして、斎藤家の家臣には有能な人材にあふれていました。また熱心なキリスト教信者だったとも言われています。一体、どのような人物だったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、斎藤龍興に注目します。
「斎藤龍興のプロフィール」
- 出身:美濃国
- 生年月日:1548年
- 死亡年月日:1573年8月14日
- 享年:26(戦死)
- 運命の戦い:一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)
「幼少期から織田信長との攻防に巻き込まれる」
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1548年に斎藤義龍の庶子、もしくは嫡男として、また斎藤道三の孫として美濃国に生まれています。父である斎藤義龍が1561年に死去し、14歳で家督を継ぐこととなりますが、有能な家臣たちが流失しています。その家臣の中には、明智光秀や森可成などがいました。そうしたことに加えて、織田信長の侵攻に対処するなどの事情から北近江の浅井長政と同盟を試みるも失敗。ここから織田信長の攻防が激化していきます。
「16歳からの斎藤龍興の信長への反撃の行く末」
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1563年になると、新加納の戦いが勃発します。これは織田信長の軍が侵攻してきたために新加納で交戦しており、家臣の竹中重治の活躍もあり織田信長の軍に勝利しています。
1564年、斎藤飛騨守が竹中重治らによって殺害されます。斎藤龍興は逃走を余儀なくされます。この事件が斎藤氏の衰退が進んでいくことになります。この事件後に斎藤龍興は稲葉城に復帰しています。
1565年、美濃国の関城主であり国内の押さえとなっていた大叔父の永井道利が元家臣の斎藤利治が織田家の武将となって攻めてきており討たれてしまいます。
1567年になると稲葉山城の戦いが起きますが、これによって西美濃三人衆として主だった人物だった、稲葉良通、氏家直元、安藤守就らが織田信長に内応し、稲葉城が織田信長によって落とされてしまいます。
1567年8月15日には、城下の木曽川を下って北伊勢の長島に退散することとなります。この時から美濃国に大名として戻ることはありませんでした。斎藤龍興は20歳の出来事でした。これ以降も織田信長への抵抗は続きます。
1569年1月には、三本圀寺の変を起こします。これは好三人衆と結託して室町幕府の第15代将軍・足利義昭への侵攻戦略。しかし、敗退。
1570年に長島に亡命していた斎藤龍興は、長島一向一揆に長井道利と参戦。織田信長への抵抗を続けています。8月になると三好康長、安宅信康、十河存保、石山本願寺法主・顕如らと三好三人衆の籠城を支援する野田城・福島城の戦いに参戦。この戦いでは、朝倉義景や浅井長政が織田信長の背後を突き織田信長の生命を脅かすほどの攻防をしています。その後、縁戚関係にあった越前国の朝倉義景の方へ逃れて保護を受けています。
1571年8月、石山本願寺の顕如が斎藤龍興に書状を送って、御本意の実現を願って黄金と太刀を受け取っています。
1573年8月に斎藤龍興にとって運命の戦いとなった刀根坂の戦いが始まります。これは、朝倉義景が浅井長政を支援して織田信長と対決するために近江国北部に出陣したさいに斎藤龍興が従軍することがきっかけとなります。しかし、この戦いで朝倉軍が織田信長の軍に敗れて追撃を受けることとなります。そして、この戦いの最中、8月14日に刀根坂の戦いで、かつての家臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られてしまい斎藤龍興は戦死してしまいます。享年26でした。
「斎藤龍興の運命の戦いとなった刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)」
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1568年8月に若狭国の守護である武田氏の内紛が生じます。これに朝倉義景は介入して当主である武田元明を保護するという名目で小浜から連れ去り、越前一乗谷に軟禁し若狭国を支配下に置きます。しかし、完全に平定したわけではなく栗屋勝久や熊谷氏など朝倉義景に抵抗もありました。
1568年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛します。そして足利義昭を将軍として朝倉義景に対して上洛を2度命じています。しかし、朝倉義景が拒否。
1573年8月8日になると、織田信長が30,000の軍を率いて近江国に侵攻します。これに対して朝倉義景も出陣の準備をしますが、家臣からの信頼が弱くなっており、重鎮の朝倉景鏡、魚住景固が出陣命令を拒否。このために朝倉義景は、山崎吉家、河合宗清たちを招集して20,000の軍で出陣します。8月12日に織田信長が暴風雨を利用して奇襲攻撃をかけて大嶽砦を攻めたために砦は落とされてしまいます。8月13日には丁野山砦が落とされてしまいます。このために朝倉義景は浅井長政と連携を取ることができなくなります。そのため朝倉義景は越前国に撤兵を決断。しかし、織田信長が撤兵することを読まれていたために織田信長の軍から追撃を受けてしまいます。この田部山の戦いで朝倉義景の軍は敗退し、柳瀬に逃走することになりました。しかも織田信長の追撃は厳しいもので撤退途中に刀根坂で織田信長の軍に追い付かれてしまいます。その被害は大きく、朝倉義景は疋田城に逃げ込みます。さらに斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延などの武将が戦死してしまいます。しかも、朝倉義景は疋田城から逃走し一乗谷に向かっていきます。この間に将兵の逃亡も相次ぎます。残った将兵は鳥居景近、高橋景業など10人程度の側近のみとなってしまいます。
8月15日に朝倉義景は一乗谷に帰還しますが、朝倉軍の壊滅を知った一乗谷の将兵の大半が逃走しておりいなくなっていました。朝倉義景が出陣命令を出しても朝倉景鏡以外は出陣さえ来ない状況となっていたということです。このために朝倉義景は自刃しようとしますが、鳥居景近、高橋景業に止められ延命。
8月16日になると朝倉義景は、朝倉景鏡の助言に従って一乗谷を放棄し越前大野の洞雲寺に逃れます。
8月17日に平泉寺の僧兵に援軍を要請するも織田信長の調略を受けていたために平泉寺は朝倉義景の要請には応じず、逆に洞雲寺を奇襲。
8月18日は、織田信長の軍が柴田勝家を先鋒隊として一乗谷に侵攻し居館や神社仏閣を放火し焼き払います。
8月19日に朝倉義景は、織田信長の軍の進軍など朝倉景鏡から防備に不安があると告げられ、賢松寺に逃げ込みます。
8月20日早朝、織田信長と通じた朝倉景鏡が裏切り、賢松寺を200騎で襲撃。これによって朝倉義景は自刃し最期を迎えた。享年41。その後、朝倉義景の首は織田信長の家臣である長谷川宗仁によって京都で獄門に晒されました。こうして、朝倉義景の死によって朝倉氏の戦国大名としての血族は滅亡しています。
「斎藤龍興は熱心なキリスト教信者だったのか」
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ポルトガルのカトリック司祭で宣教師のルイス・フロイスからキリスト教の宗儀や世界の創造などについて説かれた際に逐一書き留めて記憶していたそうです。しかも、次に教会に行った際に説かれて書き留めていた言葉をすべて明確に流ちょうに一言一句の間違いなく反復することができたそうです。このために教会の信者も驚いたという記録が残っているようです。
ルイス・フロイスと同じくポルトガルのイエズス会のカトリック教会の司祭ガスパル・ヴィレラに対しては「人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保証されて居ると師は言う。ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか」と質問したようです。この斎藤龍興の質問に対して司祭ガスパル・ヴィレラは、そのすべてに納得のいくような道理を上げて説明したということです。
そして、ルイス・フロイスは斎藤龍興について「非常に有能で思慮深い」と記録しています。
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