【高山右近】キリスト教信仰で聖書を愛し信長、秀吉の心を動かした

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【高山右近】キリスト教信仰で聖書を愛し信長、秀吉の心を動かした

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戦国時代においてキリシタン大名として最も有名な武将は、摂津現在の大阪府出身の高山右近でしょう。父の影響で子供の頃からキリスト教の信者でした。高山右近は、織田信長に仕える荒木村重の家臣となりましたが、その後、荒木村重は織田信長、裏切り反乱を起こし、高山右近にとって運命の戦いとなった有岡城の戦いです。その後、織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府を開いた徳川家康に仕えるものの、徳川家康がキリシタンを国外に追放する法律を出しフィリピンに追放されてしまいます。非常に真面目で有能で人徳に満ち、多くの大名や家臣、領内の人々から慕われていた高山右近。その高山右近は、どのような生涯を送ったのでしょうか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、戦国時代のキリシタン大名高山右近に注目します。


「高山右近のプロフィール」

  • 出身地:摂津、現在の大阪府
  • 生年月日:1552年
  • 死亡年月日:1615年1月8日
  • 享年:63(病死)
  • 運命の戦い:有岡城の戦い

「ジュスト高山右近はキリスト大名」

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高山右近の生年月日は、日本側の資料に所見がなく、外国の資料でも一致しませんが、1552年から1553年頃と推定されています。そして高山友照の嫡男として生まれました。1563年に10歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良県で琵琶法師だったイエズス会修道士のロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。ちなみに、高山右近はジュストと言う洗礼名を得ています。


「暗殺策略を暗視能力で乗り切った高槻城の城主」

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1564年三好長慶が死去すると、三好氏は内紛が起き衰退していきます。高山市の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏や伊丹氏などが独自の力を強めていました。

1568年に、織田信長の強力な軍事力の下、足利義昭が室町幕府第15代将軍となると状況は一変します。足利義昭は、摂津国の入江氏を滅ぼします。そして直臣である和田惟政を高槻城に置きました。高山親子はこの和田惟政に仕えることになりました。

1571年、白井河原の戦いが勃発。和田惟政が池田氏の被官である荒木村重と中川清秀の軍に破れて討ち死にしました。そして荒木村重はまもなく池田氏を乗っ取ります。その後、荒木村重は、石山本願寺が領有する石山周辺を除き、荒木村重の領有とします。

1573年3月、和田惟長は、反高山派の家臣とともに高山家を話し合いと偽って呼び出します。高山家の友照と子の右近は、仲間から呼び出しは、罠だと聞かされるものの、家臣15名を連れて高槻城へ赴きます。待ち構えていた和田惟長と斬り合いになります。夜だった上に乱闘で、ろうそくの火が消えてしまい、部屋は真っ暗になりました。真っ暗になりましたが、高山右近は火が消える前に和田惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えると、すぐさま、床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも、和田惟長に二太刀の致命傷を負わせました。しかし騒ぎを聞いて、駆けつけた高山の家臣たちが加勢すると、そのうちの1人が誤って高山右近に切付け、高山右近は首を半分ほど切断するという大怪我を負ってしまいます。助かりそうにない傷でしたけれども、高山右近は奇跡的に回復し、いっそうキリスト教会傾倒することになりました。一方、和田惟長は、近江国甲賀郡へ逃れましたが、死亡しています。この事件の後、高山親子は荒木村重の支配下に入ります。荒木村重は、すでに織田信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山親子は晴れて、高槻城主となることができました。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣やぬりかべなど、当時、畿内で流行しつつあった洋式を取り入れました。高山友照は、50歳を過ぎると、高槻城主の地位を高山右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになります。この時代、高山友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され、神官、僧侶は迫害を受けました。父の生き方は、息子の高山右近に大きな影響を与えました。


「有岡城の戦いでは織田信長も動かした高山右近のキリスト信仰」

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1578年10月末、高山右近が与力として従っていた、荒木村重が織田信長に反旗を翻した。荒木村重の謀反をした。高山右近は、これを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して声を示しながら、謀反を阻止しようとして失敗します。高山右近は、荒木村重と織田信長の間に入って大変悩み、尊敬していたイエズス会、オルガンティノ神父に助言を求めました。神父は「織田信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」とアドバイスしています。高槻城要衡の地であったために、織田信長は高山右近を味方につけるために、畿内の宣教師たちを説得に向かわせました。高山右近は、織田信長につく意思はあったものの、荒木村重の下にある人質たちの処刑を恐判断しかねていました。城内は、徹底抗戦を訴える高山友照と開城を求める派で分かれていました。高山右近は、織田信長に領地を返上することによって、織田信長との戦を回避します。加えて、荒木村重に対しての出兵も回避し人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至ります。高山右近は紙衣一枚で城を出て、織田信長の前に出頭しました。荒木村重は、城に残された高山右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に高山右近の離脱は、荒木勢の敗北の大きな要因となりました。この功績を認めた織田信長によって、高山右近は、再び、高槻上司としての地位を安堵されました。


「地位も権力もすべて捨てたキリシタン大名」

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1582年6月2日に本能寺の変で織田信長が死去しました。高山右近は、これを知り、羽柴秀吉の下に駆けつけた。山崎の戦いでは、先鋒を務め、中川清秀や池田恒興ととも奮戦して明智光秀を敗走させ、清洲会議でこの分後を認められています。その後、小牧・長久手の戦いや、四国征伐などにも参戦しています。高山右近は、人徳の人として知られ多くの大名が彼の影響受けてキリシタンとなりました。例えば牧村利貞、黒田孝高などです。細川忠興や前田利家は洗礼を受けませんでしたが、高山右近に影響受けてキリシタンに対して好意的でした。また、高山右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官よ僧侶に迫害を加えたために、畿内に存在するにもかかわらず、高槻周辺の古い神社仏閣の建物は、ほとんど残らず、古い仏像の数も少ないと言う異常事態となりました。領内の多くの神社の記録には、高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退したなどの記録があります。高山右近自身は、住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしませんでしたが、その影響力が手伝いだったために、領内の住民のほとんどはキリスト教徒となっていました。そのために廃寺が増えて、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記録されています。その後、豊臣秀吉によってバテレン追放令が執行されます。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選び、世間を驚かせました。


「豊臣秀吉も心打たれた高山右近のキリスト信仰心」

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1588年に前田利家に預けられて加賀国、金沢に赴いものの、囚人のような扱いを受けていたとされている。ところが、1590年になると、高山右近は前田利家から扶持を受けて暮らしていることが確認されています。この待遇の変化は、豊臣秀吉の意思によるものと考えられ、豊臣秀吉は高山右近を豊臣政権に復帰させようとしていましたが、高山右近の棄教を拒否する意思の前に豊臣秀吉も断念し、前田利家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したのではないかと指摘されています。また高山右近とその家臣たちの活動により、前田家中にもキリスト教に改宗するものが多く見られるようになりました。

1590年の小田原征伐にも建前上は追放処分のみのままでありながら、前田軍に属して従軍し小田原攻めの中で八王子城の戦いにも参戦しています。


「国外追放となった異国で最期を迎えた」

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1614年になると、加賀国で暮らしていた高山右近は、徳川家康によって出されたキリシタン国外追放令を受けて、人々の引き止める中、加賀国を退去しています。長崎県から家族と共に追放された内藤如安たちとフィリピンのマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しています。イエズス会の報告や宣教師の報告で有名になっていた高山右近は、マニラでスペインの総督であるフアン・デ・シルバたちに大歓迎されたということです。しかしながら、長い船旅の疲れや慣れない気候のために老齢となっていた高山右近は病になり、1615年2月3日に病死しています。享年63。マニラに到着して40日のことでした。


「高山右近の人徳」

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高山右近は、羽目を外さない真面目な人物だったことが豊臣秀吉など数々の名立たる諸将から証言やエピソードが残されているようです。ルイス・フロイスの日本史によれば、高槻城下で村人が亡くなった時に、棺桶を担ぐという賤民の仕事を率先して引き受けており、領内の人々を感動させたということです。また、バテレン追放令を出した豊臣秀吉は、高山右近の才能や功績を大変惜しんでいました。そこで、千利休を遣わせて高山右近にキリスト教を捨てるように促したそうです。しかし、高山右近は、「宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか」と答えたということです。この答えに対して千利休は、その志に感じて異見を述べなかったということです。高山右近のキリスト教の信仰心の篤さ、それは何よりも大切にしていたもので揺らぐことのない信仰心として本物であったことを誰もが認め、尊敬に値するものとして大切に高山右近を重んじたことがわかります。そして、それは多くの人々の心を動かし、高山右近に惹きつけるものとして人徳となっていきました。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。