【どうする家康】徳川家康の明らかになった弱点など最新実話の詳細

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【どうする家康】徳川家康の明らかになった弱点など最新実話の詳細

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2023年のNHK大河ドラマは、「どうする家康」。主人公は「徳川家康」です。家康が江戸幕府を開いたるの知っているのは知っているものの、実際に何をしたのか詳しくは知らない方も多いようです。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、「徳川家康」の生涯についてまとめてみました。


「徳川家康のプロフィール」

徳川家康は、1542年、三河国、現在の愛知県に生まれました。

岡崎城で松平広忠の長男として生まれた幼名は竹千代。

後年、徳川家康として江戸幕府を開く。

1616年、76歳で死去。


「徳川家康の幼少期から結婚まで」

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当時の松平家は国衆、と呼ばれる地域豪族であり、隣国には、尾張の国、現在の愛知県西部、の織田家、駿河、遠江国、現在の静岡県、中部〜西部の今川家の二大勢力に挟まれていました。

竹千代は3歳で母、於大の方と別れて6歳のときには織田家の人質となります。しかもその2年後には父である広忠が死去、松平家は家長不在の危機に陥りました。

その後今川と織田の人質交換交渉で竹千代は今川氏の保護下に入ったのです。従来、竹千代は、今川の人質だったと理解されてきましたが、近年の研究で竹千代は今川の人質ではなく松平家の当主として養育されていたことがわかっています。

1555年、竹千代は、元服して今川義元から一字与えられ元信と名乗りました。元信は、この時期に最初の妻である築山殿と結婚しています。築山殿は今川氏の親戚であり、元信は、今川氏の親戚になったのです。その後、元信は、元康と名前は改めています。


「運命を変えた桶狭間の戦い」

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結婚後に今川氏が順調に勢力を拡大すれば、元康は、今川の家臣として一生を終えたでしょう。しかし、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて戦死するのです。この思いもよらない時代が元康の運命を大きく変えることになります。桶狭間の敗戦によって元康は本拠地の岡崎城に戻ります。

そして、もともと敵対関係にあった織田信長と和睦して友好関係を結んだ一方で、今川氏とは断交します。元康は、三河の国統一を目指し、三河の国の反元康勢力との戦いに明け暮れます。織田信長と和睦した2年後の1563年には元康から家康と名前を改めています。こうして、今川との決別をより明確にしました。ところが同年、家康の人生最大の危機の1つと言われる三河一向一揆が勃発します。一向一揆とは浄土真宗の信者の武士や農民など領主に対して起こした一揆です。家康の家臣には浄土真宗の信者が多く、多数の家臣が離反し家康は大変苦戦します。家康は最終的には和議に持ち込み危機を脱するのです。そして1566年ついに家康は三河の国を統一を果たしました。そして家康が朝廷から三河の国の指導者を意味する、従五位下・三河守に叙位任官され、松平から徳川に改姓しました。ここに戦国大名徳川家康が誕生するのです。この時、家康はが25歳でした。


「織田信長の配下の大名となった経緯とは」

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この時期、今川義元の氏真は同盟を組んでいた武田信玄との関係を悪化させていました。そして1568年に武田信玄は、信長家康の協力を取り付けて今川の領国に攻め込み、これに呼応する形で、家康も遠江国に攻め込みます。1569年武田徳川両軍の攻撃で氏真は領国をすべて失い、戦国大名今川氏は滅亡しました。その結果、徳川家康が今川氏に代わって遠江国を支配することになり、家康は浜松城を本拠に定めました。家康は三河と遠江の2カ国の戦国大名になったのです。なおこのことから家康は織田信長配下の大名になったと言われています。今度は武田氏と国境を接することになり、両者の関係が悪化します。1572年武田信玄は家康と友好関係を結ぶ織田信長の打倒も視野に入れ軍事侵攻を開始しました。そして織田徳川連合軍は、家康の本拠地である浜松城近くの三方ヶ原で武田軍と戦い、大敗して家康は多くの家臣を失ったのです。そして武田軍は、三河国に侵攻します。しかし武田信玄が発病し武田軍は引き返すことになります。武田信玄の病状は回復することなく、帰国の途上信玄は、病死してしまいます。武田信玄の跡を継いだ武田勝頼も徳川家康の領国に侵攻します。両者は一進一退の攻防繰り広げます。奥三河長篠城めぐって長篠城近くの設楽ケ原で織田徳川連合軍と武田勝頼軍が戦闘します。長篠の戦いです。この戦いで織田徳川連合軍は、大勝し武田氏に対して優位に立ちますが、その後も武田氏との攻防が続くことになります。


「妻と息子が殺害された事件の真相とは」

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武田氏との攻防の最中の1579年に家康は、嫡男の徳川信康に自刃を命じます。そして正妻の築山殿を殺害しました。従来節では信長が信康・築山殿と武田氏の内通を疑い、信長が家康に信康・築山殿の殺害を命じたとされてきましたが、近年では信長との関係を重視する家康と武田氏との和睦を模索する信康の路線対立から家康の意向で信康・築山殿の粛正を命じたとする説が有力です。1582年には武田氏と攻防に決着を付けるため、信長と家康は武田氏の領国に侵攻します。武田氏は家臣の離反が相次ぎました。追い込まれた武田勝頼は自刃します。こうして甲斐の名門である武田氏は滅亡することになるのです。


「本能寺の変の舞台裏の出来事」

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戦後、織田信長から武田氏の領国となっていた駿河国、現在の静岡県中部が、与えられ、徳川家康は三河、遠江、駿河の3カ国の大名となりました。このお礼の挨拶をするため徳川家康は、織田信長本拠地である安土城に赴き、織田信長からもてなしを受けます。その後、徳川家康は京都や堺の観光をして翌日に織田信長と合流するため、京都に向かう途中に本能寺で織田信長が討たれたとの報告が入るのです。1582年6月2日に織田信長が滞在していた本能寺を家臣の明智光秀に襲撃され信長は自刃しました。この知らせを聞いた徳川家康は明智軍の襲撃から逃れるため帰国することを決意します。これが伊賀越えと言われたものです。家康一行は、甲賀・伊賀で多くの従者を失うことになりますが、三河国に帰国します。帰国した徳川家康は武田氏の領国だった甲斐国現在の山梨県と信濃の国、現在の長野県を手中に収めるため出瓶します。ところが関東地方を手中に収めつつあった北条氏が侵攻し、武田氏の旧領めぐって争乱となります。徳川、北条の両軍は4ヶ月ほど対峙した後、家康と北条氏は和睦します。徳川家康は和睦協定で甲斐国・信濃国を手に入れ、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国の大大名となります。


「徳川家康が豊臣大名となった経緯とは」

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一方で織田家では本能寺の変後、明智光秀を破った、羽柴秀吉、後の豊臣秀吉が台頭し、摂津国、現在の大阪府に大阪城築き、天下人への歩みを進めていました。これに対し、織田信長の次男で織田家当主の織田信雄が徳川家康に協力を要請します。こうして徳川家康、織田信雄と豊臣秀吉が敵対することになります。

1584年、秀吉は尾張国へ出陣し小牧山城の織田徳川連合軍と対峙しました。小牧・長久手の戦いです。徳川家康は局地戦で勝利を収めるものの、次第に軍勢数で勝る羽柴軍が優勢となり織田信雄と徳川家康は、秀吉に講和を申し入れ、戦いは終結しています。講和の内容を見ると明らかに秀吉有利で秀吉と信雄の主従関係は完全に逆転しました。この後、秀吉は豊臣の姓を与えられ、豊臣政権が誕生します。

1585年支配下にあった信濃の国で徳川家康に反旗を翻しした真田昌幸に第一次上田合戦で敗れ、さらに重臣の石川数正が秀吉のもとに出奔するなど苦境が重なります。石川数正が出奔したことで、秀吉は再び徳川家康討伐を計画し、再び存亡の危機を迎えることになるのです。ところが11月にマグニチュード7を超える天正の大地震が発生。秀吉は復興を優先出兵を中止しました。秀吉も徳川家康に対して和平の姿勢を見せ、徳川家康は秀吉に臣従することを決断します。

1586年、徳川家康は秀吉の本拠である大阪城向き秀吉に臣従を誓ったのです。


「天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の下で」

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豊臣大名となった徳川家康は秀吉の北条氏政・氏直との戦い、小田原合戦に従軍します。豊臣軍の圧倒的な兵力を前に北条氏が降伏し、北条氏政は自刃、北条氏直は高野山に追放され戦国大名北条氏が滅亡しました。東北の伊達氏なども秀吉に臣従し、秀吉が天下統一を成し遂げることになるのです。戦後、徳川家康は関東に移されることになります。本拠地は交通の要衝だった江戸に指定され、徳川家康の新たな居城として江戸城の増改築に取り組みました。その後、徳川家康は豊臣政権下で最大の勢力を誇る大名として豊臣政権を支えたのです。豊臣秀吉は、天下統一の8年後の1598年に61年の生涯に幕を閉じます。後継者の豊臣秀頼は幼少であり、有力大名で構成された。いわゆる五大老と秀吉の直属の家臣で構成された、五奉行で政権運営を行いました。秀吉の死の直後から権力闘争が始まり、その中で徳川家康が敵対する勢力には武力討伐を強行します。


「戦乱に生きた大将軍の幕」

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1600年7月には五大老の1人で徳川家康と敵対していた上杉景勝を討伐するため会津へ出兵しました。しかし進軍中に石田三成や毛利輝元らが、徳川家康に反旗を翻し大阪城を占拠したのです。この動きに対し、徳川家康は軍を西に向け、徳川家康が率いる東軍と石田三成らを中心とした西軍は、現在の岐阜県の関ヶ原でぶつかりました。これが有名な関ヶ原の戦いです。この戦いで徳川家康が率いる東軍が勝利して、西軍の総大将だった毛利輝元を大阪城から退去させ、秀吉の死から始まった権力闘争に終止符を打ちました。この結果、実質的な徳川政権が成立したのです。関ヶ原の戦いの3年後の1603年に徳川家康は、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。さらに1605年に将軍職を嫡男の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲して天下人の地位は徳川家にあることを示しました。その後、徳川家康は豊臣秀頼も従属下におこうとしますが、豊臣方がこれを拒絶して関係は悪化。大阪冬の陣が勃発します。徳川方が大群を動員するものの、豊臣方の抗戦もあり一旦講和しました。しかし、この講和は翌年に破綻し徳川家康は2度目の出兵を決意。大阪夏の陣が勃発します。豊臣方の真田信繁らの活躍もあり徳川家康は一時追い込まれますが、徐々に押し開始。最終的に大阪城は炎上し豊臣家は滅亡しました。徳川家康は、1616年75年の花の生涯を閉じます。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。