【酒井忠次】徳川四天王の筆頭とされる最強の天才軍師の真相に迫る

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【酒井忠次】徳川四天王の筆頭とされる最強の天才軍師の真相に迫る

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江戸幕府を開いた大将軍、徳川家康を支えた徳川四天王。その四天王は徳川家康の家臣として合戦で大活躍する強い武将たちが多くいた中でも、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政が徳川四天王と呼ばれた者たちです。では、徳川四天王と呼ばれたそれぞれの武将について見てみましょう。今回の「TimeMachineMuseum」では、徳川四天王の一角を担った四天王の筆頭、「酒井忠次」に注目します。


「酒井忠次のプロフィール」

  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1527年
  • 死亡年月日:1596年10月28日・享年70歳(病死)
  • 運命の戦い:長篠の戦い

「徳川四天王の筆頭主だった酒井忠次」

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酒井忠次をはじめ、徳川家康には、徳川四天王と呼ばれる4人の実力ある武将がいました。その一角を担っていたのが、酒井忠次と言う武将です。酒井忠次は、もともと徳川家康の父・松平広忠に仕えている武将でした。幼い8歳の徳川家康が駿河、現在の静岡県の今川家へ人質として送られた時、酒井忠次は23歳でした。その時家臣として徳川家康に付き添っている状況でした。徳川家康が人質から解放されて、戦国大名として独立すると、酒井忠次は、徳川家康の大事な戦い全てに参戦しました。とりわけ運命の戦いとされる、1575年の長篠の戦いでは、奇襲作戦でしたが別働隊を率いて武田軍の砦を次々と落とし長篠城、現在の愛知県にいた味方を救い出すという戦果を挙げています。徳川家康が同盟を組んでいた、織田信長からは、酒井忠次の背中には目があるようだと称賛されたと言う逸話もあります。その後、徳川家康の長男の徳川信康が織田信長を裏切ろうとしていると言う噂が持ち上がります。酒井忠次は、徳川家康の使者として織田信長のもとに説明に行きます。しかし、織田信長から厳しい質問を受け、酒井忠次は徳川信康をかばうことができませんでした。このために徳川信康は切腹することになってしまうのでした。この事件以降、酒井忠次は、徳川家康の最も大切な家臣としてあり続けます。そしてかの有名な関ヶ原の戦いの4年前に70歳で病死し武将としての生涯に幕を閉じます。


「運命の闘い、長篠の戦い」

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武田信玄が病死すると、武田信玄の味方だった奥平信昌が裏切って徳川家康についたのでした。

これに激怒した武田信玄の子武田勝頼は、1575年、奥平信昌が立てこもっていた長篠城、現在の愛知県を15,000の兵で取り囲んだ。

徳川家康は8000の兵を率いて応援に向かうのだった。これに加えて、さらに織田信長の30,000人の大群も助けに加わった。

織田信長は、戦国時代、当時最強と言われた武田騎馬隊への対策を立てていた。
長さ2キロメートルにわたる馬防柵を作った。これに加えて、戦国時代の最新兵器鉄砲を入手。3000兆もの鉄砲を構えた鉄砲隊を配置したのだった。さらに徳川家康の家臣である酒井忠次に別働隊を作らせ武田軍の拠点だった砦を攻撃させた。

こうした織田信長による武田騎馬隊への策が練られていたにもかかわらず、武田勝頼は進軍することを決断。もちろん家臣たちは引き上げることを勝頼に勧めましたが、勝頼はこれを断じて無視したのです。そして、なんと突撃を命令したのでした。戦国時代、最強と言われた武田騎馬隊は、次々と鉄砲隊に倒された行多くの優秀な武将が静止することとなったのです。こうして、織田信長の武田騎馬隊に対する戦略が功を奏したのでした。これによって武田勝頼は、命からから甲斐、現在の山梨県へ逃げ帰ったのでした。


「長篠の戦いの酒井忠次の逸話」

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この長篠の戦においては、奇襲攻撃については酒井忠次が発案したともされています。常山紀談の中で、奇襲攻撃は極楽寺山の軍議で酒井忠次が発案したものでしたが、織田信長から「そのような小細工は用いるにあらず」と罵倒され、その軍議では問答無用で却下されています。しかしながら、軍議が終了し将軍たちが退出したのち、織田信長は酒井忠次を密かに呼び出しています。そして、次のように命じたとされています。「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったために、わざと忠次が発案した作戦を却下したが、お前の発案は理にかなっている。最善の作戦と言えよう。作戦の指揮は、お前、酒井忠次が執ることになる。直ちに作戦を実行せよ」。

そして、長篠の戦が終わった後に織田信長は酒井忠次の活躍について「前に目あるのみならず、後にも目あり(酒井忠次については、前だけでなく後ろにも目があるかのような活躍)」と称賛します。

この織田信長の言葉に対して酒井忠次は「さて終に後ろを見たることは之なく候(私は後ろを見たことはありませんでした)」と返答しています。

織田信長は、この酒井忠次の切り返しの言葉に笑い、前後のはかりごとが違わなかったと言おうとして言い過ぎたと弁明したということです。

酒井忠次は織田信長との会話の最後に「仰せの旨、面目あり」といって退出しています。


「徳川家康が戦で、大敗となった三方原の戦いについて」

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三方原の戦いで徳川家康が武田軍に敗れて浜松城、現在の静岡県に逃げて帰ると徳川家康を打って武田軍が浜松城にやってくるのだった。この時。酒井忠次は太鼓を大きく鳴らした。これに驚いた、武田軍は何か策があるに違いないと考えて引き返したと言う。この酒井忠次の策により、徳川家康は命拾いし、そしてその後、活躍するのだった。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。