【本多忠勝】徳川四天王・漆黒の蜻蛉切槍使い戦国時代最強槍術伝説

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【本多忠勝】徳川四天王・漆黒の蜻蛉切槍使い戦国時代最強槍術伝説

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本多忠勝、その武将は57回の合戦でかすり傷1つはなかったとされています。徳川家康にはもったいないと、称えられた最強の武将。徳川四天王の1人であり本多忠勝は、徳川家康より6歳年下で少年の頃から徳川家康に使えていた人物でもあります。戦いでの強さは四天王の中でずば抜けていたと言われており、長さ6メートル以上ある槍を使う槍使いでした。この槍は、切れ味が鋭く、槍の先に止まったトンボが真っ二つになったことから、「蜻蛉切(とんぼぎり)」と呼ばれるほどの槍でした。数々の逸話、伝説を持つ徳川四天王の猛将・本多忠勝とはどのような人物だったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、蜻蛉切の本多忠勝に注目します。


「本多忠勝のプロフィール」

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  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1548年3月17日
  • 死亡年月日:1610年10月18日
  • 享年:63歳(病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い。

「幼少期から名を知らしめた姉川の戦いまで」

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1548年に本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)に生まれています。1549年に父の忠高が戦死したため、叔父の忠真のもとで育てられました。幼いころから徳川家康に仕えており、1560年の桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣しています。この時、本多忠勝は13歳でした。

1563年には三河一向一揆に徳川方として参戦しています。1566年には19歳という若さで旗本先手役に抜擢されており、与力54騎を付属されています。この時から本多忠勝は、徳川家康の居城の城下に住んで旗本部隊の将として活躍し始めます。

1570年には、姉川の戦いで徳川家康の本陣に迫る朝倉軍1万に対して単騎駆けをしています。これが戦場におけるターニングポイントでした。この時、本多忠勝を救おうと徳川家康の軍勢が必死になり、反転攻勢となり朝倉軍を打ち崩すこととなったのです。そして、この姉川の戦いにおいて本多忠勝は、朝倉軍の武将・真柄直隆(まがらなおたか/真柄十朗左衛門)との一騎討ちで名を轟かせることとなったのです。


「敵将から称賛されるほどの活躍を見せた20代~30代の本多忠勝」

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1572年の二俣城の戦いの前哨戦とされる一言坂の戦い。この戦には、鹿角の兜、黒糸威の鎧で武装していました。偵察隊として先行していた時に武田軍と遭遇。坂下という不利な地形に陣取ったものの武田軍の武将である馬場信春の部隊をまえに激闘を繰り広げ、徳川家康の本隊を逃がすことに成功しています。この戦いで武田軍の武将・小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されています。

1572年12月には、三方ヶ原の戦いに参戦。左翼を担って武田軍の武将・山県昌景の部隊と戦い撃退に成功。

1573年の9月には長篠城攻めで榊原康政と共に武田軍を打ち破り長篠城に入城し守り抜いています。

1575年の長篠の戦い、1580年の高天神城の奪還戦にも参戦しており、こうした合戦の本多忠勝の活躍ぶりについては多く敵将からも称賛されています。

徳川家康は次のような賞賛の言葉を送っています。「まことに我が家の良将なり」。

1582年の本能寺の変が起きたときには、徳川家康が京都に行って織田信長の後を追うことを本多忠勝が止め、伊賀越えを行わせたということです。これによって徳川家康の命を救いました。

1584年4月の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の軍16万に対して本多忠勝は500名の兵力で小牧から参戦。約500m先の豊臣軍に立ちはだかる。しかも、龍泉寺川で単騎乗り入れて馬の口を洗わせる余裕を見せつけた。この大胆な活躍ぶりに当時は敵将であった豊臣秀吉からも称賛されています。

1600年の関ヶ原の戦いでは、僅かな手勢で90もの首級をあげています。関ヶ原の戦いの後に福島正則から武勇を褒めたたえられたところ本多忠勝は「采配が良かったのではない。敵が弱すぎたのだ」と返答したということです。


「本多忠勝の日本三大名槍・蜻蛉切」

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徳川四天王の一人である本多忠勝が愛用していた槍。刃長は43,7㎝、笹穂型の大身槍で、柄の長さは二丈余(約6m)ありましたが、晩年に本多忠勝が三尺余(約90㎝)短く詰めたと言われています。また青貝螺鈿(あおがいらでん)細工が施されていたと言われていますが、柄は現存していません。蜻蛉切によって本多忠勝は多くの功績を挙げており、本多忠勝が生涯57回戦場に出ており、一回もかすり傷一つ負うことなく戦った猛将でもあります。

蜻蛉切は非常に切れ味が鋭く逸話は有名です。その逸話とは、ある日、本多忠勝が戦場に持参した槍を立てていたところ、たまたま飛んできた蜻蛉が穂先に触れたところ、蜻蛉が瞬く間に二つに切れてしまったというのです。この切れ味の鋭さから約二丈の槍は「蜻蛉切(とんぼぎり)」と呼ばれるようになりました。この蜻蛉切を鍛えたのは、三河文殊(みかわもんじゅ)派の刀工である、「藤原正真(ふじわらまさざね)」です。この三河文殊派とは、三河に居を移して日本刀を制作した村正派の呼称で、切れ味の鋭さを誇る「村正」の系譜からも蜻蛉切の性能の良さを理解できます。本多忠勝が亡くなってからは、子孫である本多家に伝来しました。しかし、戦後となると本多家から静岡県の沼津の実業家である故・矢部利雄(1905年~1996年)氏の手に渡りました。現在は静岡県の佐野美術館へ寄託されており一般公開されています。


「本多忠勝の漆黒の武装・兜と鎧」

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本多忠勝の特徴的な兜は「鹿角脇立兜」。鹿の角をイメージしたデザインの脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められていました。鎧は、当世具足の「黒糸威胴丸具足」と言われるもの。自らが葬った敵を弔うために肩から大数珠をさげていた。そして、動きやすさを重視していた本多忠勝は軽装備を好んでいたということです。愛馬は、「三国馬」で徳川秀忠から贈られた馬でした。関ヶ原の戦いでは島津軍の銃撃によって死亡してしまっています。


「本多忠勝のまとめ」

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徳川四天王の猛将・本多忠勝の生涯は戦に生きた人生でした。その雄姿から味方的関係なく羨望の眼差しを受けた武将であり、漆黒の武装、蜻蛉切によって多くの敵の討ち取った伝説は徳川四天王に相応しい武力でした。関ヶ原の戦いの運命の戦いや豊臣軍16万に500の兵で立ち向かう勇気は、凄まじいものがあります。徳川家康にとっては頼りになる武将であったに違いありません。武田信玄が徳川家康を攻めてきた時についての記録では、本多忠勝は逃げる徳川軍の最後の部隊の大将を務め、激しく追撃してくる武田軍をなんとか振り切るという戦いを行いました。これを見た武田軍の武将は、本多忠勝のことを「徳川家康にはもったいない武将だ」と敵将ながらたたえたということです。関ヶ原の戦いでは、合戦はもちろん、大名たちを徳川家康の味方に引き入れることでも活躍しました。そして徳川軍の勝利に力を尽くしたのです。江戸時代には桑名藩、現在の三重県の初代藩主となりました。

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