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【井伊直政】徳川四天王の赤備えの赤鬼と言われた大戦国時代の猛将
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江戸幕府を開いた大将軍、徳川家康を支えた徳川四天王。その四天王は徳川家康の家臣として合戦で大活躍する強い武将たちが多くいた中でも、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政が徳川四天王と呼ばれた者たちです。では、徳川四天王と呼ばれたそれぞれの武将について見てみましょう。今回の「TimeMachineMuseum」では、徳川四天王の一角を担った四天王の猛将、「井伊直政」に注目します。
「井伊直政のプロフィール」
- 出身地:遠江(現在の静岡県)
- 生年月日:1561年2月19日
- 死亡年月日:1602年2月1日
- 享年:42歳(病死)
- 運命の戦い:関ヶ原の戦い
「おんな城主・直虎に育てられた厳しい幼少期」
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井伊直政、武田家から受け継いだ「赤備え」を率いて戦ったことでしられたいますが、井伊直政は1561年2月19日、今川家の家臣である井伊直親の嫡男として遠江国井谷(現在の静岡県)で生まれています。幼名は「虎松」という名でした。そして悲しいことに父の井伊直親は1562年に謀反の嫌疑を受けて今川氏直に殺されたいます。この当時、井伊直政は2歳という年齢でした。そして、女武将の井伊直虎(井伊直盛の娘・次郎法師)に育てられた。その後、15歳の時、鷹狩に出ていた井伊直政は、34歳の徳川家康と出会い、家臣にしてもらったと言うことです。この時、井伊直政(虎松)は、井伊万千代と名を改めています。その後は1582年に井伊万千代から井伊直政と名乗るようになりました。この時、22歳。この時期、井伊直政は「容姿端麗にして心優にやさしければ、家康卿親しく籠愛し給い」と記録に残っているように美男子として有名で、徳川家康が豊臣秀吉に従属する前に秀吉の母・大政所やその侍女たちが井伊直政に惚れ込んだという逸話もあります。
「井伊の赤鬼となった直政」
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1582年に起きた本能寺の変では、徳川家康の伊賀越えに従軍しています。徳川家康の寝ている所へ忍び込んだスパイを討ち取るなど数々の手柄を立て徳川家康に深く信頼される家臣に成長していきます。武田家が滅びた後、徳川家康の命令で武田軍の「赤備え」を引き継いだ。この「赤備え」とは、甲冑や武器を赤色で揃えていた武田軍の最強部隊のことです。井伊直政が率いてからは、1584年の小牧・長久手の戦いで武功を挙げ、名をとどろかせていきます。この時の勇猛果敢な姿から「井伊の赤備え」と呼ばれるようになった。その後の徳川家康の合戦では、いつも大活躍した。井伊直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれて、戦国武将たちから非常に恐れられていました。
「戦国最強と言われた武田軍の赤備えとは」
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武田信玄が率いていた武田軍の赤備えを最初に率いていたのは、「甲山の猛虎」と言われていた武田軍の武将・飯富虎昌です。騎兵のみで編成されていた騎馬部隊で槍働きの武将で組織された朱色で統一した赤備の組織部隊でした。その後、1565年に飯富虎昌が義信事件で切腹し、山県昌景が部隊を引き継ぎました。そして、総勢千騎だった、この赤備えの武田軍が非常に強かったために「赤備え=精鋭」というイメージが諸大名の間で定着していったのでした。
「井伊直政にとって運命の戦いとなった関ヶ原合戦」
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関ヶ原の戦いでは、先陣(最初に攻撃する部隊)は福島正則に決まっていましたが、手柄を立てたかった井伊直政は、偵察中と嘘をついて、福島隊の前に進み、最初に鉄砲発砲して戦いを開始したのです。しかしながら、この井伊直政の突撃に関しては実際には、抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦で戦闘開始は、それに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃とされています。そして、徳川軍が率いる東軍を勝利に導くと言う活躍を示します。関ヶ原の戦の終盤では、島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を100騎程度率いて追撃。しかし、井伊直政の電光石火の如く突撃する追撃に井伊直政の配下が追い付くことができず単騎駆けのような状況だったということです。そして島津義弘の目前まで迫ったものの、島津義弘を討ち取るように命令した際に島津軍の柏木源藤に足を狙撃され落馬してしまっています。井伊直政は、戦いに優れていただけではなく、政治を行う能力も非常に高かい武将でした。関ヶ原の戦いが終わった後、江戸幕府の組織作りなどにも加わりました。西軍の総大将だった毛利輝元との講和交渉役を務め、毛利輝元から今後の御指南役を請う起誠文を送られています。また徳川氏と島津氏の和平交渉を中立ちし外交手腕を発揮するなど、徳川家康を支え続けていました。1602年2月1日に彦根城築城途中に佐和山城で関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで病気になってしまい、それがもとで命を落とします。享年42でした。
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