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【豊臣秀吉】天下統一を成し遂げるために天下人だけが持っていたもの
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天下統一を成し遂げた天下人として有名な豊臣秀吉。戦国武将として欠かすことができない人物です。歴史上、2023年のNHK大河ドラマの「どうする家康」の主人公は「徳川家康」とも切っても切り離すことのできない武将です。では、天下人になるために必要だった豊臣秀吉が持っていたものとは一体何だったのか。また天下統一を目指すようになった運命の戦いとなった山崎の戦いとは、どのような戦だったのか、経緯を調べてみました。そこで、今回の「TimeMachineMuseum」では、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に注目します。
「豊臣秀吉のプロフィール」
- 出身地:尾張(現在の愛知県)
- 生年月日:1537年(誕生日は不明)
- 死亡年月日:1598年8月18日
- 享年:62歳(病死)
- 運命の戦い:山崎の戦い
「幼少期から木下藤吉郎時代の夢」
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木下藤吉郎(豊臣秀吉)は尾張、現在の愛知県の貧しい農家に生まれた。7歳の時に父が病気し、14歳の頃に武士になると宣言して家を出て行きました。そして針を売り歩く商人等をしながら、武士になる道を探していたといわれるが、未だに数々の諸説が存在しており確かな事は未だかつてわかっていないということです。この頃、後に部下になる蜂須賀小六と出会ったと言う伝説があります。その後、木下藤吉郎が15歳頃、駿河、現在の静岡県の今川氏の家臣である松下嘉兵衛に仕え、才能を認められたものの、他の家臣からねたまれてやめてしまったということです。15歳にして才覚溢れるほどに成長しており、他の家臣も認めざるを得ないほどの存在となっていたのでした。この頃の豊臣秀吉の願いは、「天下を取れる武将のもとで武士になる」ということでした。そのように願った、豊臣秀吉は、織田信長の馬の世話をする仕事に就くことになりました。この一見すると大仕事ではないと思われがちな馬の世話ですが、非常に注目に値する姿勢を見せています。誰よりも早く起きて仕事をし、信長様に顔覚えてもらおうと、冬の寒い朝は、織田信長の草履を着物の中に入れて温め、織田信長を喜ばせたと言う逸話もあるほどの仕事に対する姿勢を見せていました。このような働きぶりに織田信長のために懸命に働き続けた豊臣秀吉はついに武士になります。
「秀吉の名が使われたのはいつ頃から?」
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1561年8月に浅野長勝の養女の「ねね」と結婚しています。この結婚については、「ねね」の実母である「朝日」は結婚に反対しますが、「ねね」は反対を押し切っての結婚となっています。そのためか結婚式は質素なものだったようです。その後、1564年に美濃国の斎藤龍興との戦いで松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎座衛門らとともに誘降工作を成功させたという記録があります。
1565年11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状で「木下藤吉郎秀吉」として副署している秀吉の名前が現れている最初の史料があります。すなわち、秀吉が織田信長の武将の一人として認められていたことを示すものとなっています。
「武士になった秀吉が羽柴秀吉と名乗るまで」
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これまでの仕事に対する姿勢同様に豊臣秀吉は、蜂須賀小六と協力して1566年に墨俣一夜城を築きます。
1567年、美濃、現在の岐阜県の斉藤氏の居城、稲葉山城へ一番先に攻め込みます。
1568年には、京都の政務を任されています。これは、近江箕作城攻略戦で活躍したことにあります。京都の政務は秀吉、明智光秀、丹波長秀の三名です。
1569年、多々良浜の戦いの際、秀吉を大将とした2万の軍で但馬国に侵攻し、わずか10日間で18の城を陥落させています。
1570年の金ヶ崎退き口においては、北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲。この際の織田信長が戦場から逃げるときには、敵を食い止めるという、目覚ましい活躍を続けました。それゆえに織田信長にとってなくてはならない家臣へと成長したのです。また姉川の戦い、小谷城の戦いなどで武功を挙げています。
1572年8月、丹波長秀、柴田勝家を敵に回したくはないという思惑から「木下秀吉」から「羽柴秀吉」に改名しています。
「織田信長の後継者となるまで」
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1573年に羽柴秀吉は、織田軍として近江、現在の滋賀県の浅井長政を滅ぼした後は、37歳で長浜城、現在の滋賀県の城主となりました。この時に長浜の政策として年貢や諸役を免除することにしました。そのために百姓など長浜に集まってきたとされています。そして近江から人材の発掘を活発化させて旧浅井家臣の集団や石田三成などの登用を行っていきました。
1575年は長篠の戦いに従軍。1576年に霧山城を落城させています。
1577年の信貴山城の戦いで松永久秀討伐に従軍して佐久間信盛、明智光秀、丹波長秀らと共に武功を挙げています。さらに10月には、織田信長に期待された豊臣秀吉は、中国地方の毛利輝元を討てと命じられます。毛利氏との戦いは長期化していきます。この時期に赤松則房、別所長治、小寺政職らを従わせるようになります。さらに但馬国を攻め、岩州城、竹田城を攻略。また小寺孝高(黒田孝高)から姫路城を譲り受け。中国地方の拠点として上月城を攻略しています。
1579年に上月城の攻略を経て宇喜多直家を服従させ、1580年、但馬国の山名祐豊、息子の山名氏政を従えています。
1581年、鳥取城の戦いで鳥取城を落城、また岩屋城を攻略し淡路国を支配しています。
1582年においては、高松城の水攻めで清水宗治の備中高松城を攻略しています。しかし、この戦いの最中に羽柴秀吉の主君である織田信長は京都の本能寺で明智光秀に襲われて死んでしまいます。いわゆる本能寺の変です。この情報を毛利軍より早くした豊臣秀吉は、そのことを隠して急いで毛利氏と仲直りするとすぐに京都に向かいます。そして山崎、現在の京都府で明智軍を破るのです。これが運命の戦いとなった山崎の戦い(天王山の戦い)です。
「秀吉の運命の戦いとなった山崎の戦いとは」
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山崎の戦い(天王山の戦い)・1582年
「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍」
戦力:20,000~40,000
武将:羽柴秀吉(羽柴秀長、黒田孝高、20,000)、織田信孝(4,000)、池田恒興(5,000)、丹波長秀(3,000)、高山右近(2,000)、中川清秀(2,500)
「明智光秀の軍」
戦力:10,000~16,000
武将:明智光秀(5,000)、斎藤利三(2,000)、伊勢貞興(諏訪盛直、御牧兼顕、2,000)、松田政近(並河易家、2,000)、阿閉貞征(溝尾茂朝、3,000)、小川祐忠利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。
12日ごろ、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣します。羽柴軍は高山右近の隊、中川清秀の隊が山崎の集落を占拠して最前線に着陣します。そして、池田恒興の隊が右翼、羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の隊が天王山の山裾の旧西国街道に沿った形で布陣。秀吉の本陣は後方の宝積寺に陣取ります。
この羽柴軍の布陣に対して明智軍は、御坊塚に明智光秀の本陣、その前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆の隊が東西に渡って布陣し迎え撃つ形を取っていました。これは、大軍が山崎の天王山と沼の間の狭い空間を抜けるためには、限られた場所しかなく、その出口を塞ぐ形の陣形となっていました。
翌日の13日16時ごろに事態は動きます。天王山の山裾を横切って高山右近の隊の横に陣を取ろうとして移動していた中川清秀の隊に対して斎藤利三の隊の右側に布陣していた伊勢貞興の隊が攻撃。これに加えて、斎藤利三の隊も高山右近の隊を攻撃し、山崎の戦いの戦闘が開始します。高山右近、中川清秀の両隊は劣勢となる中、秀吉の本隊から送られてきた堀秀政の手勢が窮地を救います。天王山の山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田孝高、神子田正治の部隊は前方に展開し、高山右近、中川清秀の両隊の側面を突こうと天王山の中腹を進撃してきた松田政近、並河易家の両隊を交戦します。
その後、淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰の両隊が円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。この攻撃によって津田信春の隊に混乱が生じます。さらに織田信孝、丹波長秀の隊が右翼から一斉に明智光秀の本隊の側面を突く形で攻撃。この状況の中、苦戦を強いられていた高山右近、中川清秀の両隊も斎藤利三、伊勢貞興の両隊を押し返し、動揺が広がった明智軍は総崩れとなったのでした。この頃、御牧兼顕は「我討死の間に引き拾え」と明智光秀に使者を送ります。そしてその後、羽柴軍に壊滅させられます。明智光秀は戦線の後方の勝龍寺城に退却。しかし、主力となっていた斎藤利三の隊が壊走して戦線離脱します。また殿をした伊勢貞興、黒田孝高と交戦していた松田政近が討死にします。こうして明智軍は大きな打撃を受けたのでした。その数は700余りにまで減衰していました。
こうした戦況となり、明智光秀は勝龍寺城の北門から脱出し居城の坂本城を目指します。しかし、小栗栖の藪(現在の京都市伏見区、明智藪)で農民の落ち武者狩りに遭遇し竹槍で刺されて殺害された(その場は凌いだものの力尽きて家臣の介錯によって自害したともされている)とされています。
6月14日に明智光秀の首は羽柴軍に届き、京都の本能寺で晒されました。
そして、羽柴秀吉は勝龍寺城に入り、堀秀政を近江への交通路遮断、明智光秀の捜索に派遣。打出の浜で明智秀満の軍を撃破。さらに坂本城で明智秀満は、溝尾茂朝、明智光忠と自刃します。高山右近、中川清秀の両隊は丹波亀山城に向かい、明智氏を滅ぼします。
6月16日になると羽柴軍は、長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎片家などを降伏または逃亡によって近江を平定します。
6月17日、斎藤利三が生け捕りにされ六条河原で処刑されました。
こうして山崎の戦い(天王山の戦い)は、羽柴軍が勝利します。そして、清州会議で織田信長の後継者としての地位を固め天下統一の道を歩み始めるのです。
7月19日の清州会議の後、最後の明智光秀方の将である武田元明が丹波長秀に攻められて自刃、京極高次は竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏。
「なぜ豊臣秀吉は天下統一できたのか」
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豊臣秀吉は山崎の戦いで信長様の跡を継ぎ天下を取ると心に決めます。そして賤ヶ岳の戦いで、ライバルの柴田勝家を破ると近畿四国九州の有力大名次々と従わせて行きます。最後に小田原城、現在の神奈川県の北条氏を降伏させ、ついに天下を統一したのです。日本全国天下統一を成し遂げるうえで必須だったものは一体何だったのでしょうか。それは豊臣秀吉はなるべく戦わずに、相手を自分の味方に引き込むことを得意としていました。そのため、短期間で天下を統一することができたと言われています。豊臣秀吉は、朝廷から関白、天皇を助ける役職を命じられ、さらに太政大臣、朝廷の最高職となりました。権力の頂点に立った。豊臣秀吉の心配は、跡継ぎの豊臣秀頼がまだ幼いことにありました。徳川家康に豊臣秀頼の将来を頼むと朝鮮出兵の最中62歳で病死します。豊臣秀吉は最初の主君を大名にしました。織田信長に使える前、豊臣秀吉は今川氏の家臣だった松下嘉兵衛に使えていました。今川氏が滅びた松下嘉兵衛は生活に困っていました。そこで出世していた豊臣秀吉は松下嘉兵衛を家臣にしたのです。さらに天下を取った後は、松下嘉兵衛を大名にまで出世させます。
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