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【山県正景】武田四天王として赤備え戦国最強騎馬隊を率いた大武将
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戦国時代において最強の騎馬隊と称された武田軍の騎馬隊。その武田信玄が率いる武田軍の中でも群を抜いた武田四天王とされたのが赤備えの武将、山県昌景でした。当時、あまりにも強すぎたために山県正景が率いる赤備えを見ただけで名立たる勇猛な兵が震え上がったとされています。そのような逸話も残っている武田四天王の山県正景とは、どのような人物で、どのような生涯を送ったのか。今回の「TimeMachineMuseum」では、武田家の猛将「山県正景」に注目します。
「山県昌景のプロフィール」
- 出身地:甲斐、現在の山梨県
- 生年月日:1529年
- 死亡年月日:1575年5月21日
- 享年:47(戦死)
- 運命の戦い:長篠の戦い
「初陣から敵なし最強だった山県正景」
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山県昌景は、武田家の家臣である飯富家に生まれました。兄の飯富虎昌は、武田信玄の長男、武田義信の教育係でした。
1552年信濃侵攻。山県昌景は、伊奈攻めにおいて初陣を果たしています。神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てて、その功績は騎馬150持の侍大将に抜擢されています。その後も伊武虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎(山県昌景)の赴くところ敵なし」とまで言われたということです。
1563年、三郎兵衛尉を名乗っています。その後、さらに戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将になっています。
1564年7月に飛騨国に侵攻し、江馬氏、三木氏を降しています。
1564年武田義信が武田信玄の暗殺を計画しました。これを事前にした山県昌景の働きで暗殺は防がれました。しかし飯富虎昌は、責任を取って自殺しました。
山県昌景は、姓を飯富から山県に改めて、飯富虎昌が率いた「赤備え」を受け継ぎます。
この「赤備え」とは、甲冑や武器を赤色で統一した武田家の最強部隊のことです。
その後、西上野への侵攻において箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に参戦しています。
1569年には、駿河江尻城代に任じられました。
1571年、遠江、三河侵攻において山県昌景は、山家三方衆など奥三河の国衆を服属させています。そして、抵抗した菅沼定盈に対して4月28日に居城の大野田城を陥落させ、菅沼定盈を退散させて、吉田城も攻囲しました。
1572年10月、武田信玄が西上作戦を決行。山県昌景は、秋山虎繁らとともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻を開始。武田氏に従属していた菅沼氏や奥平氏などの奥三河国衆が山県正景の指揮下に組み込まれており、先導させて三河国東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍。三河八名群の柿本城、遠江の井平城を陥落させて、武田信玄の本隊に合流。12月22日に三方ヶ原の戦いが勃発。三方原の戦いで山県昌景は、敵将の徳川家康に正面から突撃して、あと少しで討ち取るところまで迫りました。この時、徳川家康は「恐ろしや山県昌景!」と叫んだと言われています。そして戦場から退散し、徳川家康は恐怖のあまり大便を漏らしたと言う逸話があります。
「徳川家康を恐怖のどん底に落した三方ヶ原の戦い」
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- 三方原の戦い
- 武将:武田信玄
- 武田軍戦力:約2万7000人
- 武将:徳川家康
- 徳川軍戦力:約11,000人
- 勝者:武田軍
1572年、天下統一を狙う甲斐、現在の山梨県の武田信玄は、約2万7000人の大群で京都へと向かった。そして徳川家康の領地遠江現在の塩静岡県に入ってきたのでした。徳川家康が同盟を結んでいたのは織田軍。織田信長に助けを求めたものの、応援はなかなか来ませんでした。翌年、武田信玄は三方原まで進軍してきました。これを知った徳川家康は、「黙っていては武士としては恥ずかしい。」と武将として応戦の動きを見せます。徳川家康は約11,000人の兵士を集めて、武田軍を追いかけたのです。しかし、この動きを予想していたのは百戦錬磨の武将・武田信玄でした。そして、武田軍は引き返して徳川家康の軍勢を待ち構えることにしたのです。徳川軍が現れると山形昌景に猛攻撃をさせる指示を出します。たちまち徳川軍は総崩れとなりました。この武田信玄の戦法と戦力に徳川家康は恐怖で大便を漏らしたということです。そして、大便を漏らしながら浜松城に逃げ戻ったというのです。さらに徳川家康は帰るなり、城を開け放ち門の前で火を焚き、太鼓を鳴り響かせたんぽでした。この出来事に対して武田軍の追ってきた山県昌景らは何かわながあるのではと考え引き返して行ったのでした。こうして、徳川家康は死を免れることができたのでした。
三方原の戦いの流れ
- 1:徳川軍が武田軍を追っていく。武田信玄は軍を率いて徳川家康の領地を震源した。これに起こった徳川家康が軍を率いて武田軍を追いかけることにした。
- 2:武田軍が引き返す徳川家康が追いかけてくることを予想していた。武田信玄は引き返して徳川軍を待ち構えていた。そして徳川軍が現れるとすぐに攻撃を仕掛けた
- 3:徳川家康が戦場から逃げる。武田軍の激しい攻撃で徳川軍は総崩れになり、徳川家康は命辛々浜松城今の静岡県へと逃げ帰ったのでした。この際あまりの恐ろしさに徳川家康は大便を漏らしたと言うことです。そしてこの時徳川家康は試練に逃げ帰った時、自分の情けない姿を描かされることにしました、そして、かっとなったら、この絵を見て自分を抑えることにしようと冷静さを取り戻すことができるようにしたのでした。
「最強の武田軍武将の最期」
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1573年4月12日、武田信玄は信濃伊那郡駒場において病死。武田信玄の死後、武田勝頼が武田家を継ぎました。しかし、山県昌景とは不仲でした。
1573年8月21日、三河国の長篠城への後詰の指揮を命じられています。
1574年、武田勝頼の東美濃国侵攻において明知城を巡っての戦において救援に来た織田信長の本隊30,000人の兵に対して、山県正景は6,000人の兵で別働隊を任され、山岳地帯の地形を利用して撃退しています。戦闘では退却する織田信長の軍を追撃して4里退かせています。さらに、織田信長の周囲を固めた16騎のうち9騎を討ち取り、7騎が逃走するなど、一時は織田信長を窮地に追い詰める場面もあったほど攻勢に出ました。
1575年5月に勃発した長篠の戦いでは、織田徳川軍と戦わずに引き上げることを武田勝頼に勧めました。しかし、武田勝頼はこれを無視します。
「死ぬのが怖いのか」と山県昌景を責めました。そのため死を覚悟した山県昌景は、敵軍に突撃します。そして戦場に散っていきました。47歳でした。
「最強部隊の代名詞となった赤備えの行方」
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山県昌景の死後、「赤備え」は、徳川家康の家臣だった井伊直政に引き継がれました。
井伊直政の「井伊の赤備え」は徳川家康の数々の合戦で大活躍したため、敵から恐れられ、井伊直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれるまでになりました。井伊直政の赤い甲冑は今も残っています。
「赤備え山県正景の運命の戦いとなった長篠の戦い」
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武田信玄が病死すると、武田信玄の味方だった奥平信昌が裏切って徳川家康についたのでした。
これに激怒した武田信玄の子である武田勝頼は、1575年5月、奥平信昌が立てこもっていた長篠城、現在の愛知県を15,000の兵で取り囲んだ。
徳川家康は8000の兵を率いて応援に向かうのだった。これに加えて、さらに織田信長の30,000人の大群も助けに加わった。
織田信長は、戦国時代、当時最強と言われた武田騎馬隊への対策を立てていた。
長さ2キロメートルにわたる馬防柵を作った。これに加えて、戦国時代の最新兵器鉄砲を入手。3000兆もの鉄砲を構えた鉄砲隊を配置したのだった。さらに徳川家康の家臣である酒井忠次に別働隊を作らせ武田軍の拠点だった砦を攻撃させた。
こうした織田信長による武田騎馬隊への策が練られていたにもかかわらず、武田勝頼は進軍することを決断。もちろん家臣たちは引き上げることを勝頼に勧めましたが、勝頼はこれを断じて無視したのです。そして、なんと突撃を命令したのでした。戦国時代、最強と言われた武田騎馬隊は、次々と鉄砲隊に倒された行多くの優秀な武将が戦死することとなったのです。こうして、織田信長の武田騎馬隊に対する戦略が功を奏したのでした。これによって武田勝頼は、命からから甲斐、現在の山梨県へ逃げ帰ったのでした。
この一連の流れの中で、山県正景は1575年5月21日の設楽原決戦において内藤昌秀、馬場信春、原昌胤らと武田軍の左翼の中核を担っています。山県正景は、300騎を率いて、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、相木依田氏、大熊氏、三河国の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、孕石氏らの国衆を相備していました。
武田軍の攻勢は、午前11時に始まり、左翼の山県正景らの軍勢が徳川軍に襲撃。山県正景らの隊が、一番に攻撃を仕掛けたが敗退し、午後2時ごろに退却しています。この戦闘の最中に山県正景、真田信綱らの武田軍の武将は追撃戦の戦闘中に戦死しています。
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