【山内一豊】内助の功・千代の支えで活躍し後にカツオのたたきを発案

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【山内一豊】内助の功・千代の支えで活躍し後にカツオのたたきを発案

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戦国武将の中でも人望が厚いことで知られていた山内一豊。その陰には、内助の功である妻の存在がありました。強さと人望という武将らしさを兼ね備えた山内一豊とは一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、山内一豊に注目します。


「山内一豊のプロフィール」

  • 出身地:尾張、現在の愛知県
  • 生年月日:1546年
  • 死亡年月日:1605年9月20日
  • 享年:61 (病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い

「内助の功で戦国随一の武将となった山内一豊」

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山内盛豊の三男として尾張岩倉に生まれています。1577年に兄十郎が盗賊に黒田城を襲撃された際に討ち死にします。さらに1559年に岩倉城が落城し、父の山内盛豊は討ち死に。

1568年ごろから山内一豊は、織田信長の配下に入り、木下秀吉の豊臣秀吉の下で家人となったと考えられています。

1570年9月、姉川の戦いで初陣しています。

1573年8月、一乗谷城の戦いで敵将の三段崎勘右衛門討ち取りました。この時、山内一豊の頬に刺さった矢は、矢を抜いた後藤為浄が家宝とし、現在は、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。

1576年、豊臣秀吉の直臣となっていました。

1577年、三木合戦や備中高松城の戦いなどに参戦。

1581年の馬ぞろえの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って山内一豊に武士の面目を施すさせたと言う美談があります。

1583年の賤ヶ岳の戦いでは、前哨戦である伊勢亀山城攻め、一番宣の手柄をあげています。

1584年、小牧長久手の戦いでは、豊臣秀吉の命で、徳川家康包囲するための付城構築の作業に当たっています。

1590年、小田原征伐にも参戦し、豊臣秀次に従い、山中城攻めにも参戦しました。

1595年に豊臣秀次が謀反の疑いで処刑されます。この時、山内一豊は、豊臣秀吉の命令を遂行して、豊臣秀次を取り調べる立場となりました。豊臣秀吉の死後の1600年には5大老の徳川家康に従って、会津の上杉景勝の討伐に参戦しました。徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、山内一豊は下野国小山における軍議で諸将が東軍、西軍への去就に迷う中、まっさきに、自分の居城である桂川城を徳川家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組しました。この居城提供する案は、堀尾忠氏と事前に協議した際に、堀尾が発案したが、油断して、うっかり漏らしたものを聞き、自分の案として徳川家康に申し出、感謝を受けたと言われています。また、大阪の妻からの蜜書で石田三成の挙兵の知らせを受けたと言う話もあります。関ヶ原の戦いの前哨戦である、河田島村と米野村の戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を池田輝政や浅野幸長らとともに打ち破りました。本戦では、これらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当しましたが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家の隊が南宮山にいたために戦闘もなく、池田輝政を残して主戦場へ移動しました。戦後は小山会議で去就を決めかねていた諸侯を徳川加担に向かわせた発言が功績と評価されました。

1605年、高知城で病死。享年61。


「山内一豊の妻の働きとは」

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山内一豊は、若い頃に織田信長に仕え28歳ごろに千代と結婚しました。千代は貯めていたお金で、山内一豊が欲しがっていた名馬を買ってあげました。
織田軍の馬ぞろえに参加した山内一豊は、織田信長から注目され、出世するきっかけをつかんだということです。槍の得意な山内一豊は、織田信長の軍の武将、豊臣秀吉の家臣になり、主な戦いには全て参戦し、手柄を立てています。豊臣秀吉の死後、山内一豊は徳川家康に味方しました。関ヶ原の戦いの時、石田三成が徳川軍への攻撃を始めたことをいち早く知った千代は、それを山内一豊に伝え、山内一豊は徳川家康にすぐに伝えました。そして山内一豊は、徳川家康の味方になることを示すために、自分の城を差し出したのです。関ヶ原での勝利に尽くした、山内一豊は、徳川家康から感謝され、土佐、現在の高知県を与えられました。


「スイッチのオンオフがはっきりとした山内一豊の人柄とは」

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山内一豊は、太り過ぎで目が少し赤く、志は広く性質は温和で自分の事は語らず、情け深く、礼儀正しく会釈をし、遊学を事とせず、部下を愛し、常に言葉は穏やかで、口数は少ない。しかし戦場では、大声で叱咤激励し言葉もはっきりしていた、と歴史書には記録されています。


「カツオのたたき誕生秘話に山内一豊あり」

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江戸時代、土佐では庶民たちがカツオの刺身をよく食べていましたが、食中毒が広まることを恐れた、山内一豊はカツオの刺身を禁止したということです。そこで庶民はカツオの表面だけを焼いて焼き魚として食べました。これがカツオのたたきの始まりと言われています。

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