【デーモンコア】ルイス・スローティンが起こした核開発事故の真相

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【デーモンコア】ルイス・スローティンが起こした核開発事故の真相

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2つのプルトニウム臨界事故で「デーモンコア」と呼ばれるようになった「ハリー・ダウアン」と「ルイス・スローティン」による臨界事故。過去の放射能測定方法や「ルイス・スローティン」と「ハリー・ダウアン」の関係。「TimeMachineMuseum」では、過去の臨界状態が、どのようなものだったのか真相に迫りたいと思います。


「ルイス・スローティンの人物概要」

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1946年5月21日、「ハリー・ダウアン」の看病のために友人の科学者である「ルイス・スローティン」が訪れていました。この「ルイス・スローティン」という人物は、「ベリリウム」という中性子反射体を使用して「ハリー・ダウアン」同様にプルトニウムの距離と放射線量の測定を行っていました。実は「ルイス・スローティン」は世界で初めて製造された原子爆弾の組み立てにも参加した人物として有名で、「危険量のプルトニウムを扱うエキスパート」として知られていた人物でした。


「ルイス・スローティンの行動や性格」

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「ルイス・スローティン」の1946年5月21日の行動。その行動は「ハリー・ダウアン」と同じく実験室で研究を行っていました。プルトニウムの周りに中性子反射体の「ベリリウム」を置き、マイナスドライバーで中にあるプルトニウムとの距離を変化させることで放射能の値を測るという実験を行っていたのです。この単純で危険を伴う実験には、大多数の同僚が参加を拒否。それでも「ルイス・スローティン」は率先して実験を行っていました。この「ルイス・スローティン」に対して同僚から「いつか命を落とすことになる」と忠告も受けていたようです。それにもかかわらず1945年に「ハリー・ダウアン」にプルトニウム研究実験で命を落としていた同じ実験を行っていた「ルイス・スローティン」の行動についての理由は不明のようですが、「ルイス・スローティン」の性格が関係しているのかもしれません。彼は、イギリス留学中に軍に志願し、王位空軍に入隊、そして戦闘機パイロットとなり戦争に参加した経験を持っていました。さらに危険を顧みない性格だったようです。優秀で没頭し周りが見えなくなるような性格だったのかもしれません。科学者になってからも稼働中の原子炉近くで機器の修理をして大量の放射線を浴びても気にしないような性格であったようです。


「ルイス・スローティンによるプルトニウム研究」

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「ルイス・スローティン」は1946年5月21日の研究中に事故を起こしてしまいます。マイナスドライバーを使用してプルトニウムとの距離と放射線量を測定していましたが、マイナスドライバーの操作ミスでプルトニウムが臨界状態となり青い閃光を放ち放射線が放出されてしまいました。即座に「ルイス・スローティン」はプルトニウムの入った装置を弾き飛ばしたために研究室にいた、ほかの科学者の命は守られました。しかし、「ルイス・スローティン」は最も至近距離にいたために一秒間で膨大な放射線を浴びてしまいます。その推定量は、21シーベルトの放射線を浴びてしまいました。これは、「ハリー・ダウアン」が事故の際に受けた放射線量の4倍以上の数値でした。この時「ルイス・スローティン」は他の研究者たちに「動くな」と言い、チョークを投げてよこしたということです。これは、それぞれが立っていた場所をマーキングし、どれほどの放射線量を研究者たちが浴びたのかを計算するためだったようです。「ルイス・スローティン」は黒板に「デーモンコア」からのそれぞれの位置をスケッチ。近くにあったブラシ、空のコーラのボトル、ハンマー、メジャーなどを放射線検出器で計測しようと考えていたようです。


「事故後のルイス・スローティンの状態」

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事故を起こした後、「ルイス・スローティン」は大量の放射線を浴びていたため急性被ばく症の症状が出ており、計測可能な状態ではありませんでした。そのために「ルイス・スローティン」は、危険な状態のままの「デーモンコア」の近くまで行って周囲の放射線量を検知するように頼むものの、この調査で得られたデータは有用なものではなかったようです。その後、現場にいた科学者たちはロスアラモス病院に搬送されました。そして、「ルイス・スローティン」の手は、真っ赤になり検査する直前まで彼自身は激しく嘔吐していたということです。しかし、その翌朝になると症状も収まり、健康状態は良好に見えたと報告があったようです。また数日後、「ルイス・スローティン」の体内の白血球(減少すると体の抵抗力がなくなる)は、ほぼ全滅。その後、時間の経過とともに「ルイス・スローティン」の左手(実験の際にマイナスドライバーを手に持っていた)は麻痺し、徐々に痛みが増していったということです。左手は赤色から青白く変色。大きな水膨れとなります。事故発生後の5日目になると体温と脈拍が大きく上下しはじめました。そして、「その日から患者は急速に動けなくなっていったようです」その後、「ルイス・スローティン」は激しい嘔吐と腹痛に苦しみながら、徐々に体重に減らしていったようです。これは、「体内の放射線火傷」によるものだということです。時間がたつにつれて「ルイス・スローティン」はゾンビのようになっていき、7日後に「ルイス・スローティン」は精神錯乱に陥ってしまいます。くちびるは、青くなり、酸素テントの中での生活となります。そして、遂に昏睡状態となり、事故発生から9日目に35歳の若さで亡くなってしまいます。他の研究者たちは退院後については、慢性の神経障害、視覚障害の後遺症が残り、20年後に心臓発作で亡くなっておられる。


「デーモンコアの予定」

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1946年のビキニで核実験を行う予定でしたが「クロスロード作戦」でデーモンコアを使用する計画となっていました。しかし、この5月21日の実験研究後に旅行キャンセル、デーモンコアは壊されて他のコアを作るために再利用されていたようです。


「ハリー・ダウアンとルイス・スローティン」

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このプルトニウム実験について振り返ってみるとプルトニウムの実験や研究は、すべて極秘密裏で行われていたものでした。また「デーモンコア」事件とも言うべき事故、「ハリー・ダウアン」、「ルイス・スローティン」を考えてみました。当時、アメリカはプルトニウムの兵器転用を急ぎ、「安全性」より「開発スピード」を重視していた時期でした。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。