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【どうする家康】岡田准一が織田信長の演技と松本潤についてコメント
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2023年のNHK大河ドラマは、「どうする家康」。主人公は「徳川家康」です。家康が江戸幕府を開いたるの知っているのは知っているものの、実際に何をしたのか詳しくは知らない方も多いようです。そこで今回の大河ドラマ「どうする家康」で描かれる徳川家康に注目が集まっています。そして、この徳川家康と関係が深いのが、天性の戦の才能を賜っていたとも言われる天下統一を目指した天才戦略家・織田信長。最も有名な戦国武将であり、現代までに数多くの伝説も伝えられている偉大な人物でもあります。この織田信長を演じるのは、岡田准一さんです。アクションの演技は超一流、黒田官兵衛の大河ドラマでは主演されていた岡田准一さんの演技にも注目が集まっています。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、天才戦国覇王・織田信長、そして、大河ドラマ「どうする家康」で織田信長を演じる岡田准一さんについてまとめてみました。
「織田信長のプロフィール」
- 出身地:尾張(現在の愛知県)
- 生年月日:1534年(誕生日は不明)
- 死亡年月日:1582年6月2日
- 享年:49歳(自刃)
- 運命の戦い:桶狭間の戦い
「生まれながらの天才・信長は世間の嫌われ者だった」
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織田信長は尾張、現在の愛知県の戦国大名・織田信秀の子に生まれ、織田家の後継者として期待されました。当時、隣の国の美濃、現在の岐阜県では斎藤道三が力をつけてきていた。織田信秀は斎藤道三と戦うが敗北してしまった。織田信長と斎藤道三の娘である濃姫を結婚させることで、斎藤道三と仲直りした。その頃の織田信長は、着物は片袖を脱ぎ、丈の短い袴を履いて村の若者と遊び呆けていた。織田信長は、家臣や街の人から「尾張の大うつけ(ばか者)」と呼ばれていた。
「地元ではヤンキーだった少年時代の織田信長」
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織田信長は10代後半、変わった服装が好きでした。着物は片袖を脱ぎ、丈の短い袴をはき、腰には、ひょうたん、火打石を入れた袋などをぶら下げていたということです。この姿で牡蠣や瓜などを食べ、歩きながら街を歩いていました。それで街の人たちは、織田信長のことを尾張の大うつけ、馬鹿者、現代で言うヤンキー、アウトローと呼んでいました。父親の織田信秀が病死すると、葬式に現れた。織田信長は、抹香(焼香に使う粉)を仏壇に投げつけたと言う。それで町の人から「やはりうつけ(馬鹿者)だ」と言われていた。この葬式の件で古い家臣は、織田家を去りました。そして家は弟が継ぐべきとの声も上がっていきました。その後、織田信長派と弟はの争いが起こりました。勝利したのは織田信長だったのです。
「実は慎重な天才戦略家の織田信長」
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1560年、織田信長27歳の時に駿河、現在の静岡県の今川義元が天下統一を目指し、大群を率いて尾張に入ってきた。家臣が慌てふためく中、織田信長は黙って作戦を練りました。織田信長の作戦は功を奏します。織田信長は桶狭間、愛知県で休んでいた今川義元の本陣に少数の兵で奇襲攻撃で襲い掛かり、今川義元を討ち取ることに成功したのです。このことに織田信長の家臣たちは、興奮で湧き立ちました。そして、桶狭間の戦いについては、織田信長の戦術に大きな変化をもたらしたとも言われています。約2000人という少数精鋭部隊で奇襲攻撃を行い、天才戦術家としての才能を発揮して大勝利をおさめましたが、この戦い以降、織田信長の戦術は、奇襲など大胆で大きなリスクをとることはなく、慎重かつ緻密な計算に基づく天才的な戦術によって勝利を重ねていくのです。
「天下布武宣言で室町幕府に終止符を打つ」
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この桶狭間での勝利を後に織田信長の名は、全国に広まっていきました。織田信長は斎藤道三の孫である斎藤龍興を倒し美濃を手に入れました。そして天下布武(天下を治める)と記した印を使い始め、天下統一を宣言したのです。ちょうどその頃、室町幕府12代将軍・足利義晴の子である足利義昭が織田信長を頼ってきました。足利義昭は、織田信長の力を借りて、室町幕府を立ち直らせたいと考えていたのです。織田信長も兵士を連れて京都に入る理由が欲しかったので、足利義昭を15代将軍に仕立てあげました。しかし、京都に入った織田信長は、足利義昭を無視して、自分自身で政治を行ったため、足利義昭は不満を持つことになります。足利義光は、織田信長の天下統一を邪魔してやろうとして、越前、現在の福井県の朝倉氏、近江、現在の滋賀県の浅井氏、比叡山延暦寺、石山本願寺など手を組み、織田信長に反乱起こしたのです。このために織田信長は石山本願寺と戦いを始めることになります。そして1573年足利義昭を破って京都から追放し、室町幕府を滅ぼすことに成功したのです。これに続いて朝倉氏、浅井氏を滅ぼしていきます。
「戦国時代最強の武田軍を最新兵器で打ち破る」
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織田信長に挑んできたのは甲斐、現在の山梨県の、武田勝頼(武田信玄の子)でした。武田信玄が作った武田騎馬隊は、戦国時代最強の騎馬隊と言われ、武田勝頼が引き継いでいました。織田信長はこの武田騎馬隊に勝つために作戦を練ります。そして当時、最新兵器と言われた鉄砲しかないと考えました。若い頃から興味を持っていた火縄銃を大量に作らせて鉄砲隊を組織したのです。そして長篠現在の愛知県で武田騎馬隊を滅ぼすことに成功したのです。武田騎馬隊に勝利し、勢いに乗った織田信長は、琵琶湖、滋賀県のほとりに安土城を築きます。この安土城は、日本で最初に天守、城の中央にそびえる櫓を持つ美しい城でした。城下町では、自由な商業活動認め、経済が大いに発展していきます。
「目前で幻となった天下統一は本能寺の変にあり」
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天下統一が目前に迫った1582年、織田信長は中国地方の毛利氏を討つためにに安土城を出発します。途中で宿泊したのは京都の本能寺でした。ところが家臣の明智光秀に突然、襲われます。下剋上とされた有名な本能寺の変です。織田信長は、明智軍と戦いましたが、燃え盛る炎の中で自ら命を断ったのです。こうして戦国の覇王は戦いの最中、生涯を終えたのでした。
「従来説の桶狭間の戦いのきっかけ」
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従来では今川義元が桶狭間に出陣した理由は、京都へ上り、天下に号令をかけるためとされていました。しかしながら現在では、このことは誤りとされています。今川家と織田家は三河国と尾張国、現在の愛知県の国境めぐり長い間、対立していました。桶狭間の戦いの約10年前に今川義元は、三河国と尾張国の国境近くの織田方の拠点だった鳴海城、大高城、沓掛城を今田方に引き入れます。この3つの城や、その周辺が桶狭間の戦いの舞台となるのです。今川義元の動きに対し、織田信長は今川に奪われた、鳴海城と大高城の近くに小さな城にあたる砦を築き、2つの城の連絡を取れないようにしました。つまり今川義元が桶狭間に出陣したのは、鳴海城と大高城の救援と織田方の砦の排除が目的でした。桶狭間の戦いは三河と尾張の国境をめぐる戦いだったといえます。
「歴史資料で異なる見解」
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今川義元の攻防背景などの根拠になっている資料は、江戸時代に編纂された信長記です。信長記は多くの研究者が指摘するように歴史資料というよりも、歴史小説に近く、江戸時代に広く庶民に読まれていました。現在の信長のイメージや桶狭間の戦いのイメージは信長記によるところが大きいのです。一方、日本軍事史研究者の藤本正弘氏は信長の家臣の太田牛一が記した、信長の伝記である信長公記を重視すべきだと指摘しています。筆者の太田牛一が信長公記について創作はしていない、していれば、神罰を受けると綴っており、正確な表記を心がけていることから、一級資料として重視されているのです。織田信長が奇襲で攻撃したなど桶狭間の戦いのイメージは信長記によるものです。しかし、信長公記には全く異なる桶狭間の戦いの様子が描かれていました。
「桶狭間の戦いにおける真相とは」
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1560年5月12日、今川義元は大軍勢を率いて出発。5月18日に沓掛町に到着します。今川義元は今川方に従軍していた松平元康、後に徳川家康に大高城に食糧を運ぶことを命じました。大高城は、織田方に包囲されており、城に食糧を運び込むなど不可能に近い状況です。しかし、元康は織田方の鷲津砦と丸根砦の間を縫うように突撃し、大高城に食糧を運び込むことに成功しました。元康の貢献により大高城は落城を免れたのです。一方、織田信長にも今川の大群が沓掛城に入ったことが知らされますが、織田信長は動きません。5月19日、合戦当日に今川義元は沓掛城を出て西へ進みます。さらに大高城にいた松平元康らの今川方の先鋒部隊が織田方の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。明け方になると丸根砦、鷲津砦を今川軍が攻撃し始めたことが信長に知らされます。知らせを聞いた信長は突然、「人間50年、下天のうちを比べれば、夢幻の如くなり」と幸若舞の敦盛を舞うとすぐに出陣の準備をしました。そして居城の清洲城から出陣するのです。
「織田信長の狙いは大将の今川義元の首ではなかった?」
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しかし、織田信長が出陣した頃には既に丸根砦と鷲津砦は、今川方の手に落ち煙が上がっていました。今川方の勝利はもう間近だったのです。従来、桶狭間の戦いは、圧倒的少数の織田信長軍が間道を介して、今川義元の本陣を奇襲したと考えられてきました。しかし、藤本氏によれば信長記の創作で信長公記には全く異なる合戦の姿が描かれているといいます。信長は正面から今川軍に攻めかかり、勝利をおさめたのです。織田信長は、昼前に善照寺砦に到着しました。藤本氏によれば信長の作戦は丸根砦と鷲津砦の攻撃で疲れている今川方の先鋒隊を攻撃して戦況を打開することにあったといいます。大将の今川義元の首が狙いだったわけではなかったのです。
「信長の勘違いが歴史的勝利に繋がった?」
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一方、沓掛町出た今川義元の本陣は、桶狭間山に置かれたといいます。従来、狭間は、谷を意味するため、先鋒隊の勝利で油断していた今川義元は桶狭間と呼ばれる谷で休息をとっていたため、信長の奇襲に対応できず敗れたとされています。しかし、正確な場所わからないものの、信長公記の記述から今川義元は山か丘陵地に陣取っており、織田軍の動きはある程度、把握していたのです。今川方は本陣の前方に前衛隊を置き、織田軍の侵攻に備えました。さらに信長は中島砦に移動します。藤本氏によれば、中島砦は最も低い場所にあり、信長が奇襲を仕掛けるために隠密行動をとっていない事は明らかです。信長をさらに中島砦から進軍しました。相手から丸見えの中、近づくのですから、当然のこと家臣は止めに入ります。これに対し信長は昨夜、大高城に兵糧を運び、鷲巣砦、丸根砦で戦った日だから疲れきっている、恐れる事は無いと家臣を鼓舞します。この織田信長の鼓舞に多くの織田方の兵が勇気づけられますが、実はこの信長の認識は誤りだったことが信長公記に記されているのです。大高城に兵糧を運び、鷲巣砦、丸根砦まで落としたのは松平元康ら、先鋒隊ですが休息のため大高城に戻っていました。つまり今川義元が信長の攻撃に備えておいた前衛隊を信長は攻撃目標の先鋒隊と勘違いしていたのです。しかし、この勘違いが歴史大きく動かすことになります。信長記の逸話から信長は、今川方の情報集め、情報戦で勝利したと言う俗説もありますが、この段階で信長は前衛隊と先鋒隊を勘違いしており、今川義元の本陣がどこにあるのかも正確に把握できていなかったのです。午後1時ごろ視界を妨げるほどの大雨が降りました。そして雨が上がったところで、信長は今川義元の本陣の前方を守っていた、前衛隊に正面から攻めかかります。そして信長軍は前衛隊を突破し、そのままの勢いで今川の本陣に攻め込むのです。今川義元は予期せぬ攻撃に輿を捨てて、今川義元の親衛隊にあたる旗本とともに退却を始めました。高貴な人しか乗ることが許されない輿を見て織田信長は旗本はこれなり、これにかかれ。と命じます。つまり、織田信長は、ここで初めて自分たちが攻撃しているのが今川義元の本人だと気づき、今川義元を打つように命令したのです。乱戦の中で今川義元も太刀を抜いて奮戦するものの、ついに織田方の武将の毛利新介によって討たれました。今川義元、享年42。「海道一の弓取り」と称された武将の最期となりました。総大将が討たれた今川方が浮き足立ち文字通り、総崩れとなります。
「桶狭間の戦いにおける勝因とは」
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織田信長が勝利することができた理由はどこにあるのでしょうか。歴史家の藤本氏によれば、信長の勝因は下記の点を挙げることが出来ます。
1→織田信長が陣頭指揮をとった
2→意外な時間と場所からの攻撃
まずは1の点について。織田信長が積極的に陣頭に立って指揮を執ったことが結果的に大勝利につながりました。当初攻撃目標としていた先鋒隊と今川方の前衛隊を勘違いして、攻撃を命じたことで前衛隊を突破し、本陣に攻撃することができたのです。織田信長自ら戦場に赴いて攻撃を命じたことも大きな勝因と言えるでしょう。
2については、織田軍が大雨のやんだ午後2時ごろに敵から丸見えの低地から攻め込んだ意外な攻撃が勝因というものです。通常、戦国時代の戦は、明け方から開始することが多く、今川方がまさかこの時間に低地から攻撃を受けると想定していなかったのです。信長記に描かれた迂回奇襲ではなく、正面からの攻撃ではあったものの、今川方にとっては想定外の攻撃でした。
「信長に敗れた今川義元の敗因とは」
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桶狭間の戦いにおける今川義元の敗因は何でしょうか。従来は、緒戦の勝利で油断していたところを奇襲されて敗れたとされてきましたが、今川義元は、本陣を「おけはざま山」と記される見晴らしの良い場所に置き、織田軍の襲来に備え、前衛隊を配備していたのです。しかしながら、歴史家の藤本氏によれば今川義元の敗因は、今川の前衛隊の混乱、定石通りの行動にあったと指摘しています。まず前衛隊の混乱は、織田信長の攻撃が想定内の行動だったことに加え、前衛隊は後方の今川義元にお伺いを立てて行動する必要があり、想定外に弱い部隊だったのです。これが前衛隊が突破されてしまった要因でした。また今川義元の定石通りの行動が命取りとなってしまいました。前衛隊が突破された今川義元は、その場で織田軍と戦わず、退却と命じています。退却せず織田軍と戦っていれば付近の今川兵らが加わり勝利を収めた可能性は十分にあったでしょう。しかし、想定外の戦闘を行うよりも一旦退けば後方に今川の城もあり、味方もいることを考えたのです。定石通りで常識的な行動といえます。しかし戦の前に大雨も降ったこともあり、足場が悪く織田軍に追いつかれてしまい、今川義元は、命を落としたのです。戦は定石通りにはいかないというのが桶狭間の戦いの教訓と言えるでしょう。
「岡田准一さんのどうする家康における織田信長役の演技」
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2023年の大河ドラマ「どうする家康」で岡田准一さんが演じるのは、戦国時代の天下の覇王である織田信長。この織田信長を演じることについては「人気の戦国武将ですし、圧倒的な存在なので演じるうえでハードルの高さはあります。でも、今作では、あくまで徳川家康にとっての織田信長というキャラクターです。徳川家康との関係性が軸にあるからこそ、人間味も見せていきたいですし強さも魅力も徳川家康がいるからこそより立体的に見えるキャラクターに出来たらと思っています。」とコメントされています。
そして、実際に織田信長のオファーを受けたとき感想については、「制作人からは長年大河ドラマを愛してくださっているファンを大切にしながらも家族で見られる新しい大河ドラマをつくりたい、挑戦したい。という話を伺ってきました。時代劇の可能性や時代劇を演じていく意味、これまでの時代劇をどう超えていけるかを日々模索していますが、織田信長は破格の人物なので、こんな時代劇もあって良いじゃないか、ということを身をもって提案できる役柄だと思っています。人気の戦国武将ですし、圧倒的な存在なので演じるうえでハードルの高さはあります。でも、今作では、あくまで徳川家康にとっての織田信長というキャラクターです。徳川家康との関係性が軸にあるからこそ、人間味も見せていきたいですし強さも魅力も徳川家康がいるからこそより立体的に見えるキャラクターに出来たらと思っています。」と述べておられます。
また、幼少期の演出については、「子供のころから肉体的にも精神的にも徳川家康にトラウマを植え付けるのが織田信長なので、その象徴的なシーンとなっています。このシーンは、演出側から振り付けをお願いされていたので、大河ドラマで動きをつけるなんて考えてもみませんでしたが、お引き受けしました。台本にも総合格闘技のようにと書かれていて、新たなチャレンジという意味でも担当させていただきました。そのために子役の川口和空さんと松本潤さんには、それぞれかなり特訓してもらいました。もちろん安全面には気を付けていましたが、特に川口和空さんに対して、あんなにハードな動きでいいのかということも不安に思いました。でも終わった後に川口和空から、アクションが楽しかった、アクションができる役者になりたい、と言ってくれたので、結果的には良かったなと思いました。さらに、とても成長のスピードが早かったですね。単に振り付けを入れるだけではなく、動きにとらわれすぎずに感情が出るのを大切に。そこはサポートするから。という話もしていましたが、それもよく理解して演じていました。一緒にやっていてとても楽しかったです。
松本潤さんは、相撲のシーンを練習したいということで、うちまで来て練習したことがありました。僕が振り付けを担当しているからこそ、より完璧にやりたいということも言ってくれていました。やりにくい部分はないかということも含めて、松本潤さんは、役者の皆さんともよく会話されていました。主演として申し分ない気遣い、細やかさ、丁寧さがあって頼りになりますし、芝居においてぶつかりやすいです。
松本潤さんについては、以前、主演をさせていただいた軍師官兵衛がありました。その大河ドラマでは経験者として竹中直人さんが近くで支えてくださいました。竹中直人さんには本当に感謝しています。そういうこともあって今回は、大河ドラマの先輩として微力ながら松本潤さんを支えられたらということは思っています。大河ドラマだから、時代劇だからと小さく収めようとせずに自由にやることの大切さも、竹中直人さんから教えていただけました。収録が始まってしばらくは、大河ドラマ出演自体が初めてという松本潤さんに対して、自由に芝居する部分を見せようというのも意識しています。
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