【どうする家康】大貫勇輔が演じる信長の義弟の浅井長政へのコメント

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【どうする家康】大貫勇輔が演じる信長の義弟の浅井長政へのコメント

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2023年のNHK大河ドラマは、「どうする家康」。主人公は「徳川家康」です。家康が江戸幕府を開いたるの知っているのは知っているものの、実際に何をしたのか詳しくは知らない方も多いようです。そこで今回の大河ドラマ「どうする家康」で描かれる徳川家康に注目が集まっています。そして、この徳川家康と関係が深いのが、「浅井長政」です。幼少期から反骨精神で主君に対する独立心から武力、勢力を拡大していった浅井長政の生き様。そして、戦国武将の覇王として恐れられた織田信長。その織田信長の妹と結婚していた近江の武将・浅井長政。しかし、彼が義理の兄である織田信長を裏切った理由には何が関係しているのか。反骨精神を全うしたとされる生涯の結末とは。今回の「TimeMachineMuseum」では、織田信長に始まり、織田信長に終わったともいえる浅井長政役を大河ドラマ「どうする家康」で演じる「大貫勇輔」さんにも注目します。


「浅井長政のプロフィール」

  • 出身地:近江、現在の滋賀県
  • 生年月日:1545年
  • 死亡年月日:1573年9月1日
  • 享年:29歳(自刃)
  • 運命の戦い:姉川の戦い

「信長の妹、お市の方と結婚した武将」

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浅井家は、近江、現在の滋賀県の大名で名門の六角氏に従っていました。浅井長政は、幼名は猿夜叉丸で浅井久政の嫡男として六角氏の居城である観音寺城下、現在の滋賀県近江八幡市安土町で生まれています。それから浅井長政は15歳で家を継ぐことになります。まず、15歳の時に六角氏から臣従関係にあることを明確にされ、主君の六角義賢の賢をあてがわれ「賢政」と付けられました。さらに六角氏の家臣の平井定武の娘と婚姻関係となります。しかし、浅井長政は六角氏との関係を終わらせるために動きます。


「六角義賢の臣従関係にピリオドを打つ」

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1560年8月中旬に六角軍を相手に野良田の戦いで交戦。そして、六角氏から離れ、領地を拡大していくことになります。この時の野良田の戦いでは、六角氏に服従することに対して不満を持っていた家臣たちが味方となります。浅井久政を竹生島に追放して隠居を強要。そして、六角氏の家臣の平井定武の娘を六角氏に返して、名前も新九郎に戻します。浅井長政は、浅井久政を追放したときから野良田の合戦に向けて準備していました。それに対して六角氏は合戦が始まる前の短期間に寄せ集めの軍備しかできていませんでした。準備周到な浅井久政に軍配が上がりました。

1563年、浅井長政は美濃国に遠征中でしたが、その最中を狙って六角氏が進軍。そのために浅井長政は自軍を反転させて六角氏の軍を撃破しています。


「織田信長の妹・お市との結婚後、運命の戦いとなった姉川の戦い」

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そして、この時期に織田信長は、浅井氏と同盟を結ぼうとして、妹の「お市の方」を浅井長政と結婚させました。その時、織田信長は、浅井長政と浅井氏と仲の良い朝倉義景を勝手に責めないと言う約束を結んだのでした。

1570年、織田信長は約束を破り、朝倉氏を攻撃したのです。これに怒った浅井長政は、織田信長との同盟を突如破り朝倉義景に味方して金ヶ崎、現在の福井県で織田信長を挟み撃ちにしたのです。これが、金ヶ崎の戦いです。しかしながら、織田信長にそこから逃げられてしまいます。

しかし、この金ヶ崎の戦いのときに何故、浅井長政が裏切ったのかについては織田信長も理由がわからず「虚説たるべき」取り合わなかったようです。しかも現在でも理由は判明していません。上述で織田信長、朝倉義景、浅井長政の同盟が関係していたとされていますが、この説は江戸時代の創作物に由来しているとのことです。

1570年6月浅井長政は、朝倉軍と近江国・姉川で織田信長、徳川家康たち連合軍と交戦します。つまり浅井長政にとっての運命の戦いとなった姉川の戦いです。今度の姉川の戦いでは、織田信長と徳川家康たちの連合軍に破れてしまいます。これが、浅井長政のターニングポイントとなりました。

1570年9月に朝倉軍や延暦寺・一向宗派と連携して志賀の陣で織田信長を攻め、坂本で森可成や織田信治を討ち取るものの、織田信長が足利義昭び和睦の調停依頼、さらに朝廷工作で12月に織田信長と勅令講和となります。それから1年後、浅井長政と協力関係の延暦寺は1571年9月の織田信長によって比叡山焼き討ちで壊滅させられています。


「一乗谷城の戦いで揺らがない浅井長政の最期」

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1573年の7月に織田信長が30,000の軍で近江に侵攻してきます。浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し20000の軍が援軍として送られてきます。しかし、織田信長の軍が北近江の城を落城し、浅井家中でも寝返りする者が続くことになります。こうした戦況に朝倉義景は軍を撤退させることにし、越前国に向かいます。その撤退する朝倉軍に対して織田信長の軍が追撃。一乗谷城の戦いです。この戦いで織田信長は朝倉氏を滅亡させ、越前国に侵攻します。その後、織田信長は浅井長政に向けて進軍させ小谷城を囲みます。そして、織田信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉(豊臣秀吉)を使者として送り、降伏を勧めます。しかし、浅井長政は断り続け、最終勧告も決裂させます。そして小谷城が落城すると、浅井長政は妻と子を城から逃し、1573年9月1日、自ら命を断ったのです。享年29でした。


「浅井長政にとっての重大な戦とは」

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金ヶ崎の戦い:1570年
金ヶ崎城、現在の福井県で織田信長が朝倉義景に攻撃することによって開戦。同盟関係だった織田信長の妹・お市の方と結婚した小谷城の浅井長政が織田信長を裏切る。朝倉義景と浅井長政は、織田信長を挟んだ形、挟撃します。しかし、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と織田信長の同盟軍の徳川家康が後衛となって、織田信長の本隊を逃がしてしまいます。しかも金ケ崎城は、5月30には織田信長の降伏勧告を朝倉景恒が受け入れ、城は落とされており、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が入った。織田信長の撤退時には隙がなく被害を与えることは少なかった。


姉川の戦い:1570年7月30日

近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町)で織田信長と徳川家康の連合軍に対して、浅井長政と朝倉義景の連合軍が交戦した合戦です。金ヶ崎の戦いで難を逃れた織田信長は、京に退避しており5月9日には軍を立て直し岐阜に進軍します。

5月11日、朝倉軍と浅井軍の連合軍は南近江に進軍し六角義賢と連携して織田信長の挟撃を図ります。しかし、連携がうまくいきません。その間に5月21日、織田信長の軍は岐阜へ帰国。

一方の六角義賢の軍は6月4日に野州河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗北。そのために浅井・朝倉の連合軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火し、国境の長比などの城砦を修築して織田信長の軍の侵攻に備えていました。6月15日に朝倉軍は越前に帰陣しますが、前後して長比城に配置されていた堀秀村、樋口直房が調略によって織田信長に降り長比城は陥落。これによって織田信長は6月19日に長比城に入城しています。

6月21日になると織田信長は虎御前山に布陣し小谷城の城下町を焼き払わせるように命令。

6月22日、織田信長は殿軍として築田広正、中条家忠、佐々成政たちに鉄砲隊500、弓兵30を率いて後退しています。

6月24日、今度は小谷城の姉川を隔てて南にある横山城を包囲。織田信長と合流した徳川家康は竜が鼻に布陣します。これに対して浅井軍に朝倉義景の8000の援軍が到着。そして、大依山に布陣。さらに浅井長政の5000の兵が加わり13000が連合軍の勢力。

6月27日に浅井軍・朝倉軍の連合軍は陣払いをして、6月28日に姉川の前に軍を二手に分けて野村、三田村のそれぞれの地域に布陣。徳川軍は三田村地域へ織田軍は野村地域へ向かいます。

6月28日の午前6時に開戦。激戦となったものの、浅井軍と朝倉軍の連合の陣形が伸びきっているのを見た徳川家康が徳川四天王の榊原康政に命じて浅井・朝倉連合軍の側面を攻撃するように命令。これによって浅井・朝倉軍の連合軍は総崩れとなりました。浅井・朝倉軍は1100余りが討ち取られるという結果になります。

その後、織田信長は小谷城から50町ほどまでの距離を追撃しています。しかし、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退します。それから横山城は降伏し、織田信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)を城番として横山城に入れています。


志賀の陣:織田信長、追い詰めた、志賀の陣は1570年9月16日~12月17日の織田信長に対する浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦いです。織田信長は比叡山を包囲しますが、各地で織田信長に逆らう勢力が出たため、織田信長は追い詰められ仕方なく浅井長政と仲直り、講和することにします。これが有名な志賀の陣です。結果としては引き分けに終わった戦いです。

姉川の戦いの後、浅井長政と朝倉義景は京都へ向かって群を進めます。織田信長は迎えうとうとしましたが、浅井長政は、比叡山、現在の滋賀県に逃げます。


「大貫勇輔さんのプロフィール」

  • 名前:おおぬき ゆうすけ
  • 生年月日:1988年8月31日
  • 身長:180㎝
  • 出身地:神奈川県
  • ジャンル:ダンサー
  • 代表作:ロミオ&ジュリエット(舞台)2011年、2013年、2017年、2019年、ドリアン・グレイ(ダンス)2013年、メリー・ポピンズ(舞台)2018年、フィスト・オブ・ノーススター(北斗の拳・舞台)2021年
  • 特技:ダンス全般・アクロバット

「浅井長政に対する大貫勇輔さんのコメント」

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浅井長政の役柄についての印象は、どのようなものですか。「良き夫として、良き父として、良き武士として、様々な葛藤の末、彼は自分自身の正義を信じて突き進むことを選びます。愛する者がいながらも、自分の命を懸けた選択に、僕自身、ものすごく心を打たれました。その重みのある彼の想いを胸に覚悟をもって演じたいと思います。また大河ドラマも初めてですし、武将役も初めてなので全てが楽しみですが、特に今回は、最先端の映像技術、インカメラVFXをはじめ、技術的にもチャレンジしているということで、それも楽しみです。」

古沢作品の魅力や好きな作品があれば教えてください。「今回初めてご一緒させて頂けること本当に光栄です。特に「ALLWAYS三丁目の夕日」シリーズが好きです。ノスタルジックな雰囲気と、胸をグッと掴まれて気づくと涙が出てしまうような、温かい作品が大好きです。今回初めて「どうする家康」の脚本を読ませていただいたときに涙したのですが、素晴らしい脚本に負けないように心を込めて演じます。」

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。