
目次
【福島正則】名槍日本号と共に賤ヶ岳の七本槍として名を挙げた武将
あわせて読みたい記事:【板垣李光人】徳川四天王の赤備えの赤鬼と言われた井伊直政について
あわせて読みたい記事:【豊臣秀吉】天下統一を成し遂げるために天下人だけが持っていたもの
あわせて読みたい記事:【野村萬斎】どうする家康で演じた今川義元と桶狭間の戦いをコメント
名槍の日本号を手に賤ヶ岳の七本槍として名を挙げた戦国武将の福島正則。出身地では現在でも英雄視されており、1889年に発足した正則村の由来にもなっています。しかも、地域には正則保育園、正則小学校なども存在しており、大江川に架かる橋は正則橋と名付けられているほど伝説化した武将です。では福島正則とは一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、福島正則に注目します。
「福島正則のプロフィール」
- 出身地:尾張、現在の愛知県
- 生年月日:1561年
- 死亡年月日:1624年7月13日
- 享年:64(病死)
- 運命の戦い:賤ヶ岳の戦い
「賤ヶ岳の戦いで名匠の仲間入り」
あわせて読みたい記事:【加藤清正】身長2mの賤ヶ岳の七本槍の武将は熊本城の築城の名人
1561年、尾張国海東郡二ツ寺村、現在の愛知県あま市二ツ寺屋敷で桶屋を営む、福島正信の長男として生まれています。幼名は市松。少年に成長すると、母を通じた縁で豊臣秀吉の小姓になっています。
1578年、播磨三木城の攻撃で初陣しています。
1582年、山崎の戦いにおいて勝竜寺城を攻撃し、武功を挙げました。
1583年、賤ヶ岳の戦いにおいて一番槍、一番首として敵将の拝郷家嘉を打ち取りました。そして、賤ヶ岳の七本槍となる。
1584年、小牧長久手の戦いでは、後備えとして兵300を率いて従軍。福島正則は、本陣から美濃に撤退する敵と戦い、褒美を胴肩衣を賜っています。
1592年から文禄の役では、五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略を務ています。その後、年末に帰国。
1594年1月に再び朝鮮出兵。福島正則は、巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給といった活動をしています。10月に朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時には、福島正則が自ら軍船に乗り込み指揮を執り、敵船を焼き討ちし撃退しています。
1595年7月、豊臣秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こります。この時、福島正則は、日本により豊臣秀次に切腹の命令を伝えています。
1599年、前田利家が死去します。この時期、福島正則は、石田三成らと朝鮮出兵を契機として関係が悪化していました。そのため加藤清正とともにへ石田三成を襲撃するなどの事件を起こしています。この時は徳川家康に慰留され、襲撃を翻意しましたが、その経緯から徳川家康の大名の1人となりました。
「福島正則は関ヶ原の戦いでの策略が功を奏する」
あわせて読みたい記事:【小早川秀秋】関ヶ原の戦いで歴史の立役者で予言成就となった武将
1600年関ヶ原の戦いが勃発。会津征伐には6000の兵を率いて従軍しています。その途中で上方で石田三成が挙兵した報告を受けての小山評定では、徳川家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた福島正則が石田三成が挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く、徳川家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定します。清洲から美濃方向に侵攻し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させました。関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の軍17000と戦闘しました。宇喜多秀家の前衛8000を率いた明石全登に福島正則の軍は、一時退却を余儀なくされました。しかし、宇喜多秀家の進撃を防ぐことに成功しました。その後、小早川秀秋の裏切りを機に、西軍の戦線は総崩れしました。宇喜多秀家の軍は、開戦時から戦っていたために、疲労が頂点に達し東軍による集中攻撃に持ちこたえられなくなり、壊滅しました。福島正則は、西軍の総大将の毛利輝元からの大坂城接収にも奔走して、戦後、安芸広島など広島藩を得ています。
1603年になると福島正則は、亀居城を築城。この城は毛利領の最東端である岩国城に対する城で山陽道の交通を遮断する能力も備えていました。
1604年以降は、江戸幕府による諸城修行の動員に参加して忠勤に励んだものの、豊臣家を主筋に立てることもおろそかにすることはありませんでした。
1608年に豊臣秀頼が病を患うと福島正則は見舞いに大坂城に駆け付けたということです。
1611年3月、徳川家康が豊臣秀頼に対して二条城での会見を迫った時には、豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得して、豊臣秀頼の上洛を実現させています。なお福島正則は自身は病と称して会見には同席していません。枚方から京の街道筋を1万の兵で固めて変事に備えていたということです。
1619年に福島正則は嫡男の福島忠勝に家督を譲り、隠居しています。そして、出家して高斎と号しています。
1624年、高井野、現在の長野県高山村で福島正則は死去しています。享年64。
「福島正則の名槍・日本号は母里友信の手元に」
あわせて読みたい記事:【黒田長政】慎重にして大胆な天才軍師は切り込み隊長の初代福岡藩主
福島正則は、家宝の槍である名槍「日本号」を賭けに負けてとられてしまった。そのことが起きたのはある時、福島正則は黒田長政の使者である母里友信に大盃で酒を勧めて「飲めたら、好きな褒美を与える」と言いました。この勧めに対して、母里友信は何度も断りましたが、福島正則に「黒岳の武士は酒に弱い」と、からかわれたために一気に飲み干しました。そのため、福島正則は、仕方なく家宝の槍である名槍「日本号」を与えたということです。
「運命の戦いとなった賤ヶ岳の戦い」
あわせて読みたい記事:【前田利家】イケメン武将は戦国無双の槍の又左と言われた武将伝説
1582年、織田信長の跡継ぎをめぐり、会議が開かれた。これは清洲会議と言われる。織田信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と信長の孫である三法師を推す、豊臣秀吉が争った。跡継ぎが三法師に決まると、両者の対立が激しくなり、豊臣秀吉は織田信孝を攻撃して降伏させました。このことに憤った柴田勝家は、賤ヶ岳で、豊臣秀吉に戦いを挑む。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の南側に陣を構えたが降伏したはずの織田信孝が挙兵を起こした。豊臣秀吉が一部の軍を残して岐阜に戻ったすきに、柴田勝家の軍は、豊臣軍を攻めた。このことを予想していた豊臣秀吉は岐阜から52キロの道のりをわずか5時間で引き返し柴田勝家の軍に襲いかかった。さらに前田利家の軍が戦場を離れると柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北ノ庄城へ逃げた。
「最後の聖戦となった北ノ庄城の戦い」
あわせて読みたい記事:【どうする家康】大貫勇輔が演じる信長の義弟の浅井長政へのコメント
北ノ庄城の戦い:柴田勝家が賤ヶ岳から逃げ戻った、北ノ庄城は、柴田勝家が築いた、巨大な城で天守が高くそびえ立っていた。賤ヶ岳の戦いで勝手に柴田勝家の軍から離れた前田利家は豊臣秀吉と会って味方になっていた。前田利家を加えた数万の豊臣秀吉の軍は、北ノ庄城を攻囲した。豊臣秀吉は、この戦いが終われば、日本は平和になると考え、多くの戦死者が出たとしても、思い切って攻撃することを決意した。こうして、両軍の激しい鉄砲の打ち合いが始まりましたが、柴田勝家は負けることを覚悟していたということです。やがて天守に火がつくと、柴田勝家は、妻と娘たちを逃がそうとしました。妻は、織田信長の妹で、以前は浅井長政の妻だったお市の方です。お市の方は3人の娘を逃した後、私もお供いたします。と柴田勝家に微笑み、2人は燃え盛る炎の中で自ら命を絶ったのでした。
「福島正則についてのまとめ」
あわせて読みたい記事:【山田裕貴】どうする家康の徳川四天王の本多忠勝についてコメント
福島正則は豊臣秀吉の親類だったため、同年代の加藤清正とともに幼い頃から豊臣秀吉に仕えていました。賤ヶ岳の戦いでも加藤清正と同じく賤ヶ岳の七本槍に数えられる大活躍を見せ、その後も豊臣秀吉の数々の合戦に参加しました。朝鮮出兵では苦しい戦いを終えて戻りましたが、戦いの指示をしていた石田三成と意見が合わずに対立しました。そのために豊臣秀吉に恩を感じていましたが、関ヶ原の戦いでは、徳川軍の東軍に味方しました。加藤清正が徳川家康の東軍についたことで、石田三成の軍、西軍の多くの武将が気落ちしたということです。先陣で戦う!と、福島正則は、そう叫んで勇ましたが、先陣は井伊直政に取られてしまいました。それでも、関ヶ原の戦いで大活躍し、徳川家康の東軍を勝利に導きました。この褒美として、徳川家康から広島藩50万石を与えられましたが、勝手に広島城を修理したことで、江戸幕府によって信濃、現在の長野県に移されました。
この記事へのコメントはありません。