【加藤清正】身長2mの賤ヶ岳の七本槍の武将は熊本城の築城の名人

この記事は4分で読めます

目次

【加藤清正】身長2mの賤ヶ岳の七本槍の武将は熊本城の築城の名人

あわせて読みたい記事:【山田裕貴】どうする家康の徳川四天王の本多忠勝についてコメント

あわせて読みたい記事:【野村萬斎】どうする家康で演じた今川義元と桶狭間の戦いをコメント

あわせて読みたい記事:【豊臣秀吉】天下統一を成し遂げるために天下人だけが持っていたもの

身長は2メートルという戦国時代だけでなく現代においても巨人の武将であり、賤ヶ岳の戦いでは、賤ヶ岳の七本槍に数えられるなど勇ましい戦いぶりで有名だった加藤清正。それに加えて、築城における技術も高く文武両道の戦国武将でした。また朝鮮出兵などにおいても活躍し、帰国後の関ヶ原の戦いにおいても重要な役割を担いました。若い時から、豊臣秀吉に仕えた城作りの名人として有名な加藤清正の生涯は一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、加藤清正に注目します。


「加藤清正のプロフィール」

  • 出身地:尾張、現在の愛知県
  • 生年月日:1562年6月24日
  • 死亡年月日:1611年6月24日
  • 享年:50(病死)
  • 運命の戦い:賤ヶ岳の戦い

「七本槍とまで呼ばれる槍術武将となる」

あわせて読みたい記事:【明智光秀】裏切りの本性と織田信長の野望との関係は何だったのか

1562年6月24日、加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村、現在の名古屋市中村区に生まれています。

1564年、加藤清正が3歳の時に父が死去し、母と津島に移った。

1580年9月19日、豊臣秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状が記録上の最初の登場である。

1582年4月14日、中国経略中の豊臣秀吉が冠山城を攻めた時に、加藤清正は城に一番乗りを果たして、竹井将監を討ち取った。

1582年、本能寺の変が起こると、加藤清正は豊臣秀吉に従って山崎の戦いに参戦。

1583年、賤ヶ岳の戦いでは、敵将の山路正国を討ち取る武功を挙げました。賤ヶ岳の七本槍に数えられる。

1585年7月、豊臣秀吉が関白に就任。同時に従五位下・主計頭に叙任。

1586年、豊臣秀吉の九州平定に従い、1588年に肥後北半国を与えられ、1591年熊本城とする。


「朝鮮出兵での活躍と築城の武将として」

あわせて読みたい記事:【小早川秀秋】関ヶ原の戦いで歴史の立役者で予言成就となった武将

1592年から朝鮮出兵した。二番隊主将となって鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置きました。同じく先鋒である小西行長が率いる一番隊とは別路となり、4月17日の釜山上陸後は、小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城しています。漢城攻略後は、一番隊や黒田長政の三番隊とともに北上して臨津江の戦いで金命元の朝鮮軍を打ち破ります。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは離れて東北方向に向かい、海汀倉の戦いで朝鮮軍を破りました。さらに加藤清正は、豆満江を越えて、満州のオランカイへ侵攻。

1593年6月、第二次晋州城の戦いで加藤清正の軍は北面からの攻城を担当。亀甲車を作り、配下の森本一久と飯田直景が、黒田長政の配下の後藤基次と一番乗りを競って城を陥落させています。

1597年からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対して、加藤清正は右軍の先鋒となりました。再び朝鮮に渡海する時に、小西行長は明軍と朝鮮軍に加藤清正の上陸予想地点を密かに知らせて、加藤清正を討たせようとしました。しかし、敵の李舜臣は、罠だと判断して出撃しなかったために加藤清正は攻撃を受けなかった。日本軍の作戦目標は、全羅道を壊滅させて注清道へ侵攻することと、その後は後退して城郭郡を建設することでした。加藤清正は全羅道に向かって進軍して黄石山城を陥落させて、全羅道の道都全州を占拠しました。そして、忠清道鎮川まで進軍して、作戦目標を達成しています。そのため、日本軍の諸将は築城予定地まで後退しています。加藤清正は東方に築城される蔚山の地に入りました。

1597年12月、完成が間近に迫った蔚山城へ明軍、朝鮮軍の57000の兵が攻め込んで蔚山城の戦いが勃発。20000の損害を敵に与えて勝利。

1598年9月、再び蔚山城は攻撃を受けるものの、城は完成しており苦戦することなく撃退しています。その後、豊臣秀吉が死去。加藤清正は、すぐに日本に帰国しました。そして、五大老の徳川家康に接近しています。

1599年3月28日、前田利家が死去。福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗すると、さらに徳川家康へ接近を強めた。

1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する徳川家康の下に派遣しています。石田三成らの挙兵を知った徳川家康は、その家臣を肥後に返して、加藤清正の東軍への加勢を認めました。その間にも加藤清正は、黒田如水と連絡をとって、徳川家康の東軍に協力する約束を交わして、徳川家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田長政の軍と出陣し、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城を開城、調略して、九州の西軍勢力を打ち破りました。

1611年6月24日に熊本で死去。享年50。


「徳川家康と豊臣秀頼の仲介役」

あわせて読みたい記事:【徳川家康】戦場の恐怖でウンコを漏らした大将軍の黒歴史の真実とは

加藤清正は、徳川家康と豊臣秀頼の会見に出席した。1611年、京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼が初めて会うことになりました。この時、加藤清正は出席することを許され、豊臣秀頼の隣に座って会見が無事に終わるように見守っていたということです。この会見の後加藤清正は、安心して熊本に向かいました。しかし帰る途中で病気になり、熊本城で亡くなってしまいます。


「運命の戦いとなった賤ヶ岳の戦い」

あわせて読みたい記事:【前田利家】イケメン武将は戦国無双の槍の又左と言われた武将伝説

1582年、織田信長の跡継ぎをめぐり、会議が開かれた。これは清洲会議と言われる。織田信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と信長の孫である三法師を推す、豊臣秀吉が争った。跡継ぎが三法師に決まると、両者の対立が激しくなり、豊臣秀吉は織田信孝を攻撃して降伏させました。このことに憤った柴田勝家は、賤ヶ岳で、豊臣秀吉に戦いを挑む。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の南側に陣を構えたが降伏したはずの織田信孝が挙兵を起こした。豊臣秀吉が一部の軍を残して岐阜に戻ったすきに、柴田勝家の軍は、豊臣軍を攻めた。このことを予想していた豊臣秀吉は岐阜から52キロの道のりをわずか5時間で引き返し柴田勝家の軍に襲いかかった。さらに前田利家の軍が戦場を離れると柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北ノ庄城へ逃げた。加藤清正は、この賤ヶ岳の戦いでは、敵将の山路正国を討ち取る武功を挙げました。


「柴田勝家を追い詰めた北ノ庄城の戦い」

あわせて読みたい記事:【板垣李光人】徳川四天王の赤備えの赤鬼と言われた井伊直政について

北ノ庄城の戦い:柴田勝家が賤ヶ岳から逃げ戻った、北ノ庄城は、柴田勝家が築いた、巨大な城で天守が高くそびえ立っていた。賤ヶ岳の戦いで勝手に柴田勝家の軍から離れた前田利家は豊臣秀吉と会って味方になっていた。前田利家を加えた数万の豊臣秀吉の軍は、北ノ庄城を攻囲した。豊臣秀吉は、この戦いが終われば、日本は平和になると考え、多くの戦死者が出たとしても、思い切って攻撃することを決意した。こうして、両軍の激しい鉄砲の打ち合いが始まりましたが、柴田勝家は負けることを覚悟していたということです。やがて天守に火がつくと、柴田勝家は、妻と娘たちを逃がそうとしました。妻は、織田信長の妹で、以前は浅井長政の妻だったお市の方です。お市の方は3人の娘を逃した後、私もお供いたします。と柴田勝家に微笑み、2人は燃え盛る炎の中で自ら命を絶ったのでした。


「加藤清正についてのまとめ」

あわせて読みたい記事:【黒田長政】慎重にして大胆な天才軍師は切り込み隊長の初代福岡藩主

加藤清正は豊臣秀吉の親類だったため、小さい頃から豊臣秀吉に仕えていました。そして、成長して身長は2メートル近くあったという長身でした。賤ヶ岳の戦いでは、賤ヶ岳の七本槍に数えられるなど勇ましい戦いぶりで有名でした。朝鮮出兵にも参加し、朝鮮半島の奥地まで攻め込むなど大変活躍しました。しかし、朝鮮出兵を終わらせようとする小西行長や石田三成と対立します。豊臣秀吉がなくなると、加藤清正と小西行長、石田三成たちの仲は、さらに悪化していきます。加藤清正は、徳川家康の味方になり、関ヶ原の戦いでは徳川軍(東軍)にて参戦して勝利しています。徳川家康から肥後(現在の熊本県)を与えられた加藤清正は、熊本城を建て、河川工事などの公共事業を行い、領民から慕われました。豊臣家に音を感じていた加藤清正は、徳川家と豊臣家の仲直りを願っていましたが、それを果たせないまま病死してしまいます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

管理人:TMM

管理人:TMM

未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。