【小早川秀秋】関ヶ原の戦いで歴史の立役者で予言成就となった武将

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【小早川秀秋】関ヶ原の戦いで歴史の立役者で予言成就となった武将

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日本の歴史に大きな影響を与えた関ヶ原の戦い。この歴史的な戦いにおいて重要人物とされるのが小早川秀秋です。非常に若い武将でありながら名だたる武将に影響を与え、歴史を塗り替える出来事の張本人となりました。また、小早川秀秋については予言があり、その通りに成就したという情報もあります。この興味深い人物とは一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、小早川秀秋に注目します。


「小早川秀秋のプロフィール」

  • 出身地:近江、現在の滋賀県
  • 生年月日:1582年
  • 死亡年月日:1602年10月18日
  • 享年:21(病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い

「幼くしてアルコール依存症だった小早川秀秋」

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1582年に木下家定の五男として近江国の長浜に生まれています。幼名は、辰之助と呼ばれていました。

1585年に叔父である羽柴秀吉の養子となり、高台院に育てられることとなりました。元服してからは、羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗っています。

1589年には、豊臣秀吉の後継者候補として7歳という年齢で元服させられており、豊臣秀勝の領地である丹波亀山城の10万石を与えられています。

1591年になると、豊臣姓が確認されていますが、1592年、従三位・兼中納言兼左衛門督に叙任して「丹波中納言」と呼ばれるようになりました。これによって諸大名から関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者ともみられることとなり、7歳の元服と同時に毎晩酒を飲みかわす大名接待を受けることなりました。

1593年に大きな変化が生じます。豊臣秀吉の実子の豊臣秀頼が誕生するのです。これによって小早川隆景は「小早川秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」と話が持ちかけられることとなります。これを聞いた、小早川隆景は自身の養子に貰い受けることを申し出て認められます。この時、小早川秀秋は12歳にして毎晩の酒盛り接待のためにアルコール依存症になっていたと言われています。

1594年、豊臣秀吉の命によって小早川秀秋(秀俊)は、小早川隆景と養子縁組させられています。これによって小早川隆景は官位が中納言に上昇し、小早川家の家格が上昇しました。しかし、この年で小早川隆景は備後国三原に隠居。小早川秀秋(秀俊)は、九州に下って筑前国名島城の主となりました。

1597年2月21日、朝鮮出兵となり釜山浦で前線から注進を取り次ぐ人を与えられています。6月12日に小早川隆景が死去。その日以降、小早川秀秋と名乗るようになりました。

1598年1月29日に帰国。8月に豊臣秀吉が死去。豊臣秀吉の遺命によって1599年2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、小早川秀秋は筑前・筑後の所領が59万石となります。


「小早川秀秋の運命の戦いとなった歴史を変えた関ヶ原の戦い」

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1600年7月18日~8月1日の伏見城の戦い。この戦には西軍として参戦。その後は、近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていたようですが、9月14日には、1万5000の兵を率いて、関ヶ原の南西にある松尾城に伊藤盛正を追い出して入城しています。関ヶ原の戦いの本戦が始まった午前8時。前半となる午前中は、西軍が優勢となっており、小早川秀秋は戦況の進展を傍観していました。この状況に対して徳川家康は苛立ち使者を何度も送っています。また鉄砲を小早川秀秋の陣に打ちかけるまでになっていたということです。その後、小早川秀秋は松尾城を下り、西軍の大谷吉継の陣を急襲します。この際に小早川秀秋の一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかったために無断で撤退しています。しかし、戦況は大きく変わります。小早川秀秋の離反から連鎖的に脇坂保治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの離反が生じて大谷吉継、平塚為広、戸田勝成の諸将が討死しています。これによって西軍は壊滅。石田三成は大坂城を目指して伊吹山中へ逃亡。関ヶ原の戦いの本戦の翌日以降に行われた石田三成の居城である佐和山城攻めが行われ小早川秀秋も参戦しています。

この関ヶ原の戦いにおける一連の離反については、黒田長政、稲葉正成、平岡頼勝が中心となって調略が行われていたようです。黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存しています。一方で、石田三成、大谷吉継らの西軍首脳も小早川秀秋の行動に不審を感じており、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2か国の加増を約束して小早川秀秋を慰留したという史料もあるようです。関ヶ原の戦いの戦後、小早川秀秋は岡山55万石に移封されました。そして、小早川秀秋は改名して小早川秀詮と名乗っています。そして、国替えの際に前領地の筑前国から年貢を持ち去っています。岡山城に入ってからは、家臣の知行の割り当て、寺社寄進領の安堵、側近勢力の拡充を図っています。

1602年10月18日、関ヶ原の戦いの2年後、小早川秀秋(秀詮)は21歳という若さで病死しています。


「小早川秀秋の早死には予言の成就?」

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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った、小早川秀秋は、大谷吉継の軍に襲撃しました。この時、大谷吉継は「人面獣心(人間の顔をしているが、心は動物)なり!3年の間にたたりをなさん」と叫んで切腹したということです。そして大谷吉継のその言葉通りに関ヶ原の戦いの後、2年後、小早川秀秋は病死しました。


「小早川隆治(現:小早川家当主)」

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1879年に小早川秀秋で断絶した系譜の後継として、毛利宗家の公爵毛利元徳の三男である三郎を当主とした小早川家が再興されています。この三郎は早世して子がいなかったために、その弟の四郎が養子となって継承して、華族に列して男爵の爵位が授けられています。その後、四郎の養子として毛利元昭の次男である毛利元治が継承。そして、元マツダ社モータースポーツ部門技術者・マツダRX-7開発主査でモータージャーナリストの小早川隆治は、小早川元治(毛利元治)の息子となります。ちなみに小早川元治は日産自動車の自動車技術者です。


「小早川秀秋の生涯まとめ」

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豊臣秀吉の甥の小早川秀秋は、幼い時に豊臣秀吉の養子となりました。しかし、豊臣秀吉に息子の豊臣秀頼が生まれたために、小早川秀秋は毛利家の養子に出されることになりました。毛利元就の三男の小早川隆景は毛利家が豊臣家に乗っ取られることを恐れて小早川家の養子として引き取りました。豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋は石田軍(西軍)の武将として参戦しましたが、その裏で徳川家康に味方することを約束していました。関ヶ原の戦いの最初は西軍が有利でした。そのため、小早川秀秋は「これはどうしたらいいものか」と悩みました。小早川秀秋はなかなか動きませんでしたが、ついに決断し、西軍の大谷吉継を襲撃しました。この裏切りがきっかけとなり、西軍の武将が次々と裏切り、西軍は総崩れとなりました。この決断によって、徳川家康が率いる東軍の勝利につながりました。その褒美として、小早川秀秋は、岡山藩、現在の岡山県570,000石を与えられました。しかし関ヶ原合戦の勝利の2年後、21歳と言う若さで病死しました。

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管理人:TMM

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。