【杉野遥亮】徳川四天王の榊原康政役と大河ドラマの裏側をコメント

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【杉野遥亮】徳川四天王の榊原康政役と大河ドラマの裏側をコメント

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2023年NHK大河ドラマは「どうする家康」です。その江戸幕府を開いた大将軍、徳川家康を支えた徳川四天王。その四天王は徳川家康の家臣として合戦で大活躍する強い武将たちが多くいた中でも、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政が徳川四天王と呼ばれた者たちです。では、徳川四天王と呼ばれたそれぞれの武将について見てみましょう。そして、2023年NHK大河ドラマは「どうする家康」で榊原康政を演じる「杉野遥亮」さんの演技にも注目が集まっています。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、徳川四天王の一角を担った四天王であり文武両道の将、「榊原康政」と2023年NHK大河ドラマは「どうする家康」で榊原康政を演じる「杉野遥亮」さんに注目します。


「榊原康政のプロフィール」

  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1548年誕生日は不明
  • 死亡年月日:1606年6月19日
  • 享年:59歳(病死)
  • 運命の戦い:姉川の戦い
  • 徳川家康にも厳しく注意する。真面目な家臣。榊原康政は、徳川四天王の一鶴を担う人物。本多忠勝と同い年で、少年時代より徳川家康に使えていた戦いに優れ、徳川家康から称えられて名前に徳川家康の康の字をもらっている。姉川の戦いでは、浅井・朝倉連合軍を横から攻めて崩し、小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀次(豊臣、秀吉の甥)の軍勢を別働隊を率いて、奇襲攻撃するなど合戦で数々の手柄を挙げた人物です。

「幼いころから文武両道だった榊原康政」

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1548年に榊原長政の次男として三河国上野郷(愛知県豊田市上郷町)に生まれています。幼児期から勉学に励み、書を読んで、字も上手でエリートだったようです。13歳の時に松平元康(徳川家康)に見いだされて、小姓となっています。これが運命の出会いとなり、三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし徳川家康から武功を称されて「康」の字を与えられたということです。ここから榊原康政は大躍進していきます。

1566年に19歳で元服。同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属されています。その後、旗本部隊の将として活躍することになりますが、とりわけ姉川の戦いから注目されます。

1570年、姉川の戦いで朝倉軍に側面からの攻撃を加え武功を挙げています。

1572年の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康が撤退するときに家康が浜松城に入らずに昼間のうちに浜松城に入れなかった味方の兵を集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ動揺して逃げ惑う武田軍を混乱させて浜松城に入ったという奇想天外な作戦を実行しています。

1575年、長篠の戦いにおいては徳川本陣に向かって突撃してくる内藤正豊に対して、榊原康政は本多忠勝と共に戦い徳川家康を守り抜く活躍をしています。

1581年の高天神城の戦いでは、先陣を務めています。

1582年の本能寺の変の際には、徳川家康の伊賀越えに同行し守り抜いています。

1600年の関ヶ原の戦いでは、主力の徳川秀忠の軍の軍監として従軍しています。そして、中山道を辿り美濃国を目指していましたが、荒天で徳川家康の進発命令を携えた使者が遅れてしまい、信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸への攻撃を中止し、美濃に向かうことにします。しかし、美濃に向かっても荒天は続き、徳川秀忠と共に関ヶ原の戦い(上田合戦)に遅れて到着してしまいます。このことに徳川家康は、徳川秀忠に大激怒。しかし、榊原康政が「我が子を待たずに戦っておいて遅れたと責めるのですか」と徳川家康を厳しく注意した。これによって徳川家康の怒りは収まり事なきを得たということです。さらに徳川秀忠には上田城攻撃の中止を進言しています。


「姉川の戦いについて」

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1570年4月、織田信長が約束を無視して、朝倉義景を攻めたことを知った、浅井長政は織田信長との同盟を捨て織田信長へ攻撃を開始した。絶体絶命の危機を逃れた、織田信長は、浅井長政の裏切りを許さなかった。その2ヶ月後、織田信長は浅井長政のいる小谷城(現在の滋賀県)へ20,000人の兵士を率いて侵攻した。そこへ織田信長と同盟を結んでいる。徳川家康の軍勢約5000人が駆けつけた朝倉義景は、約8000人の兵士を浅井長政の応援に送った。織田、徳川軍と浅井・朝倉軍は、姉川(滋賀県)を挟んで睨みあっていた。しかし、遂に激しい戦闘が始まった。浅井・朝倉軍が縦に伸びて散らばっていることに気づいた徳川家康は、家臣の榊原康政に敵の横側から閉めろと命令した。この作戦が成功し、浅井・朝倉軍は総崩れとなった。両軍とも優秀な武将を多く失った。姉川戦死者で血に染まったと言う。

姉川の戦いの流れ

1→織田信長が小谷城へ進軍する。織田信長は、20,000人の兵士を引き連れて岐阜城を出発。浅井長政の居城である小谷城を目指すのであった。

2→徳川家康が参加する。徳川家康は、兵士を率いて姉川(滋賀県)の南岸に到着する。一方の浅井長政は、小谷城から出撃し、朝倉義景から送られた兵士と一緒に姉川の北岸に到着。

3→榊原康政が朝倉郡を攻撃する。
姉川を挟んで両軍が激突。徳川軍の榊原康政が朝倉郡の横側から攻撃を始めると、朝倉軍は総崩れとなり、織田徳川軍が勝利をした。

榊原康政は、この姉川の戦いのときに第二陣に属し、隊を真一文字に進軍させ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示したということです。酒井忠次の隊を追い越す勢いだったため、先鋒隊だった酒井忠次の隊も慌てて功を競ったという逸話もあります。この戦いについて徳川家康は、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」と褒められたということです。


「榊原康政についての逸話・伝説」

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徳川家康の息子、徳川秀忠が関ヶ原の戦いに間に合わなかったとき、徳川家康は起こって、徳川秀忠に会おうとしなかった。この時、榊原康政は「我が子を待たずに戦っておいて遅れたと責めるのですか」と徳川家康を厳しく注意した。江戸時代、幕府の政治にも参加したが、「年老いた家臣が権力をにぎれば国は滅びる」と言って、すぐに居城の館林城、現在の群馬県に帰った。

豊臣秀吉は、榊原康政の首に十万石をかけたと言う。小牧長久手の戦いの時、榊原康政は豊臣軍に向けて「織田信長の家臣だった豊臣秀吉は、その音を忘れて織田家を乗っ取ろうとしている。」という文章を書いた。それを読んだ豊臣秀吉は、激しく、怒って、榊原康政を殺したものに十万石の褒美を出すと述べたと言うことです。

井伊直政と仲の良い親友だったという記録もあり、その記録の中には「大御所(徳川家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。また「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くはない」とお互いの信頼関係を垣間見ることができます。


「榊原康政の甲冑・武力」

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「榊原康政は武勇で本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は本多忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」という記録があります。

榊原康政の甲冑は、「黒糸威二枚胴具足(くろいとおどしにまいどうぐそく)」と「紺糸威南蛮胴具足(こんいとおどしなんばんどうぐそく)」です。

黒糸威二枚胴具足:金箔を施した大きな「三鈷剣(さんこけん)」の前立が力強い「鉄錆地六十間(てつさびじろくじゅうにけん)」の筋兜となっています。黒漆塗の鉄板の左脇に蝶番を取り付けた二枚胴、黒漆塗の板物を黒糸で「素懸威(すがけおどし)」にした「草摺(くさずり)」の構成となっています。兜の吹返(ふきかえし)や胴の正面と杏葉(ぎょうよう)という型の鉄板には、金箔で榊原家の家紋である源氏車紋が配してあります。兜の前立の三鈷剣は不動明王を表す祭神具のひとつとされています。

紺糸威南蛮胴具足:西洋の甲冑を模して南蛮貿易によって日本で作られた甲冑です。兜には、錣(しころ)とヤクの毛が取り付けられ正面と左右には榊原の家紋の源氏車紋が施されています。南蛮胴は正面の中央部分が鋭角的に盛り上がっています。このために鉄砲に対して防御力は高い作りとなっていますが、重量が増し高価なものとなりました。徳川家康が南蛮胴を愛用していて、関ヶ原の戦いの前に徳川家康から榊原康政は紺糸威南蛮胴具足を拝領したとされています。


「杉野遥亮さんのプロフィール」

  • 名前:杉野遥亮 すぎのようすけ
  • 出身地:千葉県八千代市
  • 身長:185㎝
  • 血液型:O型
  • 職業:俳優・ファッションモデル(雑誌モデル・テレビドラマ・映画・CM)
  • 活動期間:2016年ー
  • 杉野遥亮さんは、千葉県立佐倉高校を卒業されていますが、幼いころから高校卒業までバスケットボールをされていたスポーツ万能な俳優さんです。2015年頃は法政大学に在学されていましたが、その後は中退されています。2015年の第12回FINEBOYS専属モデルオーディションでグランプリを獲得されて芸能界にてデビューされています。実は、事務所の先輩である松坂桃李さんに憧れてオーディションを受けられたことをラジオで語っておられます。aikoさんのシングル「プラマイ」のMVに出演されました。2016年には、ドラマ「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」に出演されて俳優デビューされました。2017年はCM「新潟米新之助「お待たせしました。新之助です。」に出演しイメージキャラクターに起用されています。さらに2017年は映画「キセキーあの日のソビトー」に出演して、劇中でGReeeeNの前身となるユニットであるグリーンボーイズ名義でCDデビューもされました。2018年に地域限定放送で九州朝日放送が制作・放送しているドラマ「福岡恋愛白書13」においてドラマ初主演されています。2019年にgo!go!vanillasのアルバム「THE WORLD」より「パラノーマルワンダーワールド」のMVに出演されました。

「杉野遥亮さんが榊原康政についてコメント」

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「正直、時代劇というものに苦手意識があった。と撮影の感想を述べておられます。

大河ドラマについて「俳優という仕事をやっているからには、一度は出たいと思う、そういう作品。自分は正直、時代出来というものに苦手意識があったんです。歴史に詳しくないので、台本を読むのにすら苦労する。それでもドラマの台本を読んだときは、すごく面白いと思えました。」とコメントされています。また「こういうふうに歴史に触れられたら、もっと歴史を好きになれただろうな、と思うような台本ですし、いただいた企画書もすごくキラキラしていて楽しそうだったんです。その世界の一部になれるならうれしいなという気持ちで、引き受けさせていただきました。」さらに撮影現場に足を踏み入れ、「みんなが大河ドラマに出たいと思う理由が、やっと分かりました。」とも述べておられます。撮影現場については、「僕は切り替えが下手で、不器用なところもあるので、わりとしゃべらずにいるほうですけれど、ふとしたときにコミュニケーションをとれるんです。撮影の合間、殿(松本潤さん)が写真を撮ってくれたり、そういう小さな時間で、気持ちが楽になる瞬間があります。」とコメントされています。

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。