【竹中重治・半兵衛】豊臣秀吉の軍師として戦わずして勝利をした武将

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【竹中重治・半兵衛】豊臣秀吉の軍師として戦わずして勝利をした武将

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血を流すことなく戦わずして勝利を引き寄せる。これが戦国武将である竹中重治(竹中半兵衛)の戦略でした。生まれながらにして戦国武将の斎藤氏の家臣として生まれて初陣を飾ってからは、戦闘をする武将というよりも頭脳を用いた知将であり天性の軍師ともいえるでしょう。その才能は、織田信長の目に留まるほどの能力でした。では、一体どのような戦国武将として戦っていったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、竹中重治(竹中半兵衛)に注目します。


「竹中半兵衛(竹中重治)のプロフィール」

  • 出身地:美濃、現在の岐阜県
  • 生年月日:1544年
  • 死亡年月日:1579年6月13日
  • 享年:36(病死)
  • 運命の戦い:稲葉山城乗っ取り

「斎藤氏の家臣にして反逆者の竹中重治の生涯」

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1544年、美濃の斎藤氏の家臣の竹中重元の子として生まれています。

1556年、長良川の戦いが初陣です。斎藤道三に味方しましたが、父が不在のため代わりに大将を務めました。籠城戦の末に斎藤義龍の軍を撃退しています。

1558年、不破郡岩手城主の岩手弾正の攻略に従軍しています。

1560年、父が死去、または隠居。これによって家督を相続しています。そして美濃国の斎藤義龍に仕えました。

1561年に斎藤義龍が死去。その後、後を継いだ斎藤龍興に仕えます。この頃は尾張国の織田信長による美濃侵攻が激しい状況でしたが斎藤義龍の頃は織田信長の侵攻を防いでいました。しかし、斎藤義龍が死去したあと斎藤龍興の時代になると、それも困難となりました。そのような状況を見た織田信長が、1561年7月に美濃に侵攻。1563年になると新加納で織田信長の軍と戦闘。竹中重治の戦術によって斎藤龍興の軍は勝利しました。そうした状況で、主君の斎藤龍興は酒に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して、竹中重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。それで1564年2月6日、竹中重治は安藤守就の軍と斎藤龍興の居城である稲葉山城を襲い、斎藤飛騨守ら6名を討ち取り、斎藤龍興を逃亡させています。この状況を知った織田信長は、美濃への圧力を強化します。7月29日頃まで稲葉山城の占領は続いていましたが、8月には斎藤龍興に奪還を許しています。竹中重治は、自ら斎藤龍興を諭し、稲葉山城を斎藤龍興にしたともされています。稲葉山城を放棄した後は隠居生活を送ります。

1567年、竹中重治は、織田信長の侵攻によって斎藤龍興が稲葉山城を追われて没落すると斎藤家を去ります。そして岩手へと帰りました。実のところ織田信長は、浪人していた竹中重治を自分の家臣として登用したいと考えていました。それで美濃攻めて頭角を現していた木下秀吉(豊臣秀吉)に勧誘を命じて、木下秀吉は、三顧の礼で竹中重治を誘ったとされています。竹中重治は、この時、豊臣秀吉の天性の才能を見抜き織田信長に直接仕える事は拒絶しましたが、豊臣秀吉の家臣となることを了承したということです。その後、信長包囲網が敷かれ、織田信長と浅井長政が敵対関係になると、竹中重治は、浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍しました。

1570年、浅井方の長停軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせています。この直後姉川の戦いにも安藤守就の舞台に参戦しました。この合戦の後に織田信長の命令によって横山城に木下秀吉とともに残しおかれ、この頃から織田信長の直進から豊臣秀吉の与力へ転じたと推測されています。豊臣秀吉が、中国攻めの総大将に任じられると、竹中重治は、豊臣秀吉に従って中国遠征に参加します。

1578年5月24日、宇喜田氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させて、報告するために京都に向かいます。そして織田信長に賞賛され、金子100両を授けられて、播磨に帰陣しました。同じ1578年、有岡城の戦い。織田信長に6本を犯した荒木村重に対して、木下秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるものの、城内て捕縛、監禁され外部との連絡を断たれたために、織田信長は黒田孝高に加担したと思い込み、黒田孝高の嫡男の松寿丸、のちの黒田長政の殺害を木下秀吉に命じました。しかし竹中重治は、織田信長の首実験に際して、木下、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に隠した。のちに助け出された黒田孝高は非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けています。

1579年4月、三木合戦。播磨三木城の包囲中に病に倒れて、陣中て6月22日に病死しています。享年36。


「なぜ竹中重治は稲葉山城を襲撃したのか?」

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稲葉山城が織田信長に落とされる前、竹中重治(竹中半兵衛)は、わずか16人の部下と共に稲葉山城を乗っ取りました。これは、遊んでばかりいた斎藤龍興を注意するための行動でした。その後は竹中重治(竹中半兵衛)は、半年後に城を斎藤龍興に返して、斎藤龍興のもとから去りました。


「竹中重治についてのまとめ」

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竹中重治(竹中半兵衛)は、美濃現在の岐阜県の斎藤龍興の家臣だった。しかし、斎藤龍興は遊んでばかりいて、美濃の政治をまともに行わなかった。そこで竹中重治(竹中半兵衛)は、怒って少数の兵で稲葉山城を乗っ取りました。そして半年後に城を返すと斎藤龍興のもとから去りました。斎藤氏が滅びると、その後、竹中半兵衛の才能を見込んだ織田信長が家臣の豊臣秀吉に迎えに行かせたところ、竹中重治(竹中半兵衛)は豊臣秀吉の人柄を気に入り「あなたになら仕える」と、豊臣秀吉の家臣になりました。また竹中重治(竹中半兵衛)が得意としたのは、戦わずに敵を味方に引き込む事でした。豊臣秀吉の軍師として、なるべく負傷者を出さずに、敵を降伏させることに力を注ぎました。そして、豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛と協力して、豊臣秀吉を助けましたが、三木城の戦いの最中に病死しました。

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