【滝川一益】織田信長の四将を担った陸・海の戦略の武将として活躍

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【滝川一益】織田信長の四将を担った陸・海の戦略の武将として活躍

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戦国時代の覇王として戦地を巡った織田信長の家臣には、重要な武将が4人いました。1人目、柴田勝家、2人目、丹羽長秀、3人目、明智光秀、そして4人目、滝川一益です。滝川一益は、伊勢、現在の三重県の長島で起きた一向一揆(浄土真宗の信者による反乱)で武功を挙げました。そして長篠の戦いでも大活躍します。攻撃したり、退却したりするタイミングがとてもうまく「進むも滝川、退くも滝川」と戦略を讃えられていました。鉄砲隊や水軍の指揮の扱いも上手でした。織田信長の覇王の四将一角を担った滝川一益は、一体どのようなものだったのか。そこで今回の「TimeMachineMuseum」では、滝川一益に注目します。


「滝川一益のプロフィール」

  • 出身地:近江、現在の滋賀県
  • 生年月日:1525年
  • 死亡年月日:1586年9月9日
  • 享年:62(病死)
  • 運命の戦い:神奈川の戦い

「陸・海の戦場で勝利を重ねた織田信長の四将・滝川一益」

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1525年に近江国に生まれています。

1560年、北伊勢の桑名は美濃国との境で、患と関係があるため、桑名長島の地を得て北畠氏や関氏に対して備えることを滝川一益が織田信長に助言しています。

1563年、松平家康、後の徳川家康との同盟交渉を担いました。これは清洲同盟と言われています。

1567年と1568年の織田信長の伊勢国攻略の際には、攻略の先鋒として活躍しました。

1575年ごろから北畠氏の軍事行動を先導しており、滝川一益と連携して越前一向一揆討伐や大和国宇陀郡の統治を行っています。

1570年9月の石山本願寺の反織田信長による石山合戦の開始で長島一向一揆も勃発。11月には織田信長の弟、織田信興が小木江城で討ち取られ、滝川一益も桑名城に籠城。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、さらに遊軍として各地を転戦することになりました。

1573年の一乗谷城の戦いに参戦。4月末に足利義光と織田信長の家臣との間で起請文が交わされました。足利義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛、滝川一益、埴直政で織田信長側の発給者は林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、稲葉一鉄、安藤守就、氏家ト全、滝川一益であり、滝川一益が重鎮の家にあったことを伺わせています。

1574年、3度目の長島一向一揆鎮圧に際しては、九鬼嘉隆らとともに水軍を率いて、海上から射撃を行うなど織田軍の援護をしました。

1575年、長篠の戦い。この戦いでは鉄砲隊の総指揮を執りました。また越前一向一揆を攻略しています。

1576年の天王寺合戦。

1577年の紀州征伐に参戦。

1578年、第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に滝川一益の白船1隻が出陣。また鉄甲船の建造にも携わっています。

1579年11月まで続いた有岡城の戦いでは、有岡城の守備を崩壊させることに成功しました。こうした出来事のために、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞りようになり、1580年4月石山本願寺法主である顕如は織田信長に降伏します。

1581年、伊賀攻めに参戦。甲賀口から侵攻。

1582年、織田信長が甲州征伐を計画。嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国に侵攻させます。この際に滝川一益は2月12日に出陣。家老の河尻秀隆と軍監になり、森長可らと攻略戦の主力となっています。滝川一益は、甲州征伐で武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取る武功を挙げました。

1582年6月2日、織田信長が本能寺の変によって死去しました。織田信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状で深谷の狩野一庵から本能寺の情報を得たことを滝川一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えています。しかし実際には、6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していたのでした。滝川一益が織田信長の死を知ったのは、6月7日でした。6月16日、織田信長の死に乗じて、小田原城の北条氏直、鉢形城主の北条氏邦、北条氏政、北条氏照、北条氏規らの軍56,000が、北条軍として上洲倉賀野に侵攻。神奈川の戦いの勃発です。関東地方にいた滝川一益は、約2倍の兵力の北条軍から攻められることになったのです。滝川一益は18000の兵を率いて、和田に陣取り、北条軍を迎え撃ち、6月18日の初戦に勝利しました。しかし6月19日の合戦では、北条軍が勝利しました。この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏みとどまって討ち死にし、上洲衆では木部貞朝らが討ち死にしています。この「神奈川の戦い」に敗れた滝川一益は、織田信長の跡継ぎを決める、清洲会議(愛知県)に間に合いませんでした。この会議で、豊臣秀吉が織田信長の後を継ぎ、織田信長の孫・三法師(織田秀信)に決めると、柴田勝家や織田信長の三男の織田信孝は、不満を抱き、豊臣秀吉と対立します。そして、戦いへと発展していきました。滝川一益は、柴田勝家、そして織田信孝の側につきました。賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家が4月23日に自害。4月29日、織田信孝も自害。こうして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れると、長島城(三重県)に籠城して戦っていた滝川一益。残った滝川一益は、さらに長島城で籠城して孤軍奮闘しましたが、7月には豊臣秀吉に降伏しました。命は助けられた滝川一益でしたが、領地をすべて取り上げられたため、そして京都妙心寺で僧となり、朝山日乗の絵を豊臣秀吉に進上して、丹羽長秀を頼り、越前において隠居しました。


「滝川一益の運命の戦いとなった神奈川の戦い」

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本能寺の変の時、滝川一益が関東北部を支配していました。しかし、関東南部を支配する北条氏が、織田家との同盟を破って約30,000人の兵で滝川一益の支配地を攻めてきました。両者は神奈川(現在の埼玉県)で激突しました。しかし、兵力が北条軍の約半分だった滝川一益は破れてしまい伊勢、現在の三重県へ逃亡しました。

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