【どうする家康】徳川四天王の山田裕貴・大森南朋・板垣李光人・杉野遥亮がコメント

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【どうする家康】徳川四天王の山田裕貴・大森南朋・板垣李光人・杉野遥亮がコメント

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2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」。注目されている江戸幕府を開いた大将軍、徳川家康を支えた徳川四天王。その四天王は徳川家康の家臣として合戦で大活躍する強い武将たちが多くいた中でも、酒井忠次(大森南朋)、井伊直政、本多忠勝、榊原康政が徳川四天王と呼ばれた者たちです。では、徳川四天王と呼ばれたそれぞれの武将について見てみましょう。今回の「TimeMachineMuseum」では、徳川四天王と大河ドラマで四天王を演じた山田裕貴さん、大森南朋さん、板垣李光人さん、杉野遥亮さんのコメントにも注目します。


「本多忠勝のプロフィール」

  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1548年3月17日
  • 死亡年月日:1610年10月18日
  • 享年:63歳(病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い。

「幼少期から名を知らしめた姉川の戦いまで」

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1548年に本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)に生まれています。1549年に父の忠高が戦死したため、叔父の忠真のもとで育てられました。幼いころから徳川家康に仕えており、1560年の桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣しています。この時、本多忠勝は13歳でした。

1563年には三河一向一揆に徳川方として参戦しています。1566年には19歳という若さで旗本先手役に抜擢されており、与力54騎を付属されています。この時から本多忠勝は、徳川家康の居城の城下に住んで旗本部隊の将として活躍し始めます。

1570年には、姉川の戦いで徳川家康の本陣に迫る朝倉軍1万に対して単騎駆けをしています。これが戦場におけるターニングポイントでした。この時、本多忠勝を救おうと徳川家康の軍勢が必死になり、反転攻勢となり朝倉軍を打ち崩すこととなったのです。そして、この姉川の戦いにおいて本多忠勝は、朝倉軍の武将・真柄直隆(まがらなおたか/真柄十朗左衛門)との一騎討ちで名を轟かせることとなったのです。


「敵将から称賛されるほどの活躍を見せた20代~30代の本多忠勝」

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1572年の二俣城の戦いの前哨戦とされる一言坂の戦い。この戦には、鹿角の兜、黒糸威の鎧で武装していました。偵察隊として先行していた時に武田軍と遭遇。坂下という不利な地形に陣取ったものの武田軍の武将である馬場信春の部隊をまえに激闘を繰り広げ、徳川家康の本隊を逃がすことに成功しています。この戦いで武田軍の武将・小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されています。

1572年12月には、三方ヶ原の戦いに参戦。左翼を担って武田軍の武将・山県昌景の部隊と戦い撃退に成功。

1573年の9月には長篠城攻めで榊原康政と共に武田軍を打ち破り長篠城に入城し守り抜いています。

1575年の長篠の戦い、1580年の高天神城の奪還戦にも参戦しており、こうした合戦の本多忠勝の活躍ぶりについては多く敵将からも称賛されています。

徳川家康は次のような賞賛の言葉を送っています。「まことに我が家の良将なり」。

1582年の本能寺の変が起きたときには、徳川家康が京都に行って織田信長の後を追うことを本多忠勝が止め、伊賀越えを行わせたということです。これによって徳川家康の命を救いました。

1584年4月の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の軍16万に対して本多忠勝は500名の兵力で小牧から参戦。約500m先の豊臣軍に立ちはだかる。しかも、龍泉寺川で単騎乗り入れて馬の口を洗わせる余裕を見せつけた。この大胆な活躍ぶりに当時は敵将であった豊臣秀吉からも称賛されています。

1600年の関ヶ原の戦いでは、僅かな手勢で90もの首級をあげています。関ヶ原の戦いの後に福島正則から武勇を褒めたたえられたところ本多忠勝は「采配が良かったのではない。敵が弱すぎたのだ」と返答したということです。


「本多忠勝の日本三大名槍・蜻蛉切」

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徳川四天王の一人である本多忠勝が愛用していた槍。刃長は43,7㎝、笹穂型の大身槍で、柄の長さは二丈余(約6m)ありましたが、晩年に本多忠勝が三尺余(約90㎝)短く詰めたと言われています。また青貝螺鈿(あおがいらでん)細工が施されていたと言われていますが、柄は現存していません。蜻蛉切によって本多忠勝は多くの功績を挙げており、本多忠勝が生涯57回戦場に出ており、一回もかすり傷一つ負うことなく戦った猛将でもあります。

蜻蛉切は非常に切れ味が鋭く逸話は有名です。その逸話とは、ある日、本多忠勝が戦場に持参した槍を立てていたところ、たまたま飛んできた蜻蛉が穂先に触れたところ、蜻蛉が瞬く間に二つに切れてしまったというのです。この切れ味の鋭さから約二丈の槍は「蜻蛉切(とんぼぎり)」と呼ばれるようになりました。この蜻蛉切を鍛えたのは、三河文殊(みかわもんじゅ)派の刀工である、「藤原正真(ふじわらまさざね)」です。この三河文殊派とは、三河に居を移して日本刀を制作した村正派の呼称で、切れ味の鋭さを誇る「村正」の系譜からも蜻蛉切の性能の良さを理解できます。本多忠勝が亡くなってからは、子孫である本多家に伝来しました。しかし、戦後となると本多家から静岡県の沼津の実業家である故・矢部利雄(1905年~1996年)氏の手に渡りました。現在は静岡県の佐野美術館へ寄託されており一般公開されています。


「本多忠勝の漆黒の武装・兜と鎧」

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本多忠勝の特徴的な兜は「鹿角脇立兜」。鹿の角をイメージしたデザインの脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められていました。鎧は、当世具足の「黒糸威胴丸具足」と言われるもの。自らが葬った敵を弔うために肩から大数珠をさげていた。そして、動きやすさを重視していた本多忠勝は軽装備を好んでいたということです。愛馬は、「三国馬」で徳川秀忠から贈られた馬でした。関ヶ原の戦いでは島津軍の銃撃によって死亡してしまっています。


「本多忠勝のまとめ」

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徳川四天王の猛将・本多忠勝の生涯は戦に生きた人生でした。その雄姿から味方的関係なく羨望の眼差しを受けた武将であり、漆黒の武装、蜻蛉切によって多くの敵の討ち取った伝説は徳川四天王に相応しい武力でした。関ヶ原の戦いの運命の戦いや豊臣軍16万に500の兵で立ち向かう勇気は、凄まじいものがあります。徳川家康にとっては頼りになる武将であったに違いありません。武田信玄が徳川家康を攻めてきた時についての記録では、本多忠勝は逃げる徳川軍の最後の部隊の大将を務め、激しく追撃してくる武田軍をなんとか振り切るという戦いを行いました。これを見た武田軍の武将は、本多忠勝のことを「徳川家康にはもったいない武将だ」と敵将ながらたたえたということです。関ヶ原の戦いでは、合戦はもちろん、大名たちを徳川家康の味方に引き入れることでも活躍しました。そして徳川軍の勝利に力を尽くしたのです。江戸時代には桑名藩、現在の三重県の初代藩主となりました。


「山田裕貴さんのプロフィール」

  • 本名:山田裕貴 やまだゆうき
  • 出身地:愛知県名古屋市
  • 生年月日:1990年9月18日
  • 身長:178㎝
  • 血液型:O型
  • 職業:俳優(テレビドラマ、映画、舞台)
  • 活動期間:2010年ー
  • 家族の父が元プロ野球選手で中日ドラゴンズ、広島東洋カープで内野手として活躍した山田和利さん。それゆえに山田裕貴さんも小学校、中学校まで野球をされていました。しかし、「プロ野球選手にはなれない」と思い、高校で断念されています。東邦高校卒業後に芝居の勉強をするためにワタナベエンターテインメントカレッジに入っておられます。2011年にテレビドラマの「海賊戦隊ゴーカイジャー」のジョー・ギブケン/ゴーカイブルー役で俳優デビューされました。山田裕貴さんは、「海賊戦隊ゴーカイジャー」の初期では演技が思うようにうまくいかず、さらに東日本大震災も重なり無力感を感じていたものの、山田裕貴さん自身のメイン回である第11話、第12話の撮影を経て自信が持てるようになったということです。また子供から「将来はゴーカイブルーになりたい」という手紙をもらったことで、自分自身の仕事に意味があると感じることができたと語っておられます。

「どうする家康で本多忠勝を演じる山田裕貴さんのコメント」

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2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川四天王の一人、本多忠勝を演じる「山田裕貴」さん。その登場シーンについてコメントを出されています。まずは、第1回で大高城から逃げ出した元康を連れ戻す場面についてです。山田裕貴さんは、「恥ずかしくないのかと殿に言える男の子ってどういう人なんだろうというところから、本多忠勝の人物像を考えました。あそこに本多忠勝の全てが詰まっていたのだと思います」とコメントしています。

続いて第2回の大樹寺で元康が切腹しようとした場面について山田裕貴さんは、「特に本多忠勝の思いが分かるシーンでした。殿は決めきらないし、この武士の世で、何を優柔不断にナヨナヨしてるんだろうと。その姿を見ていると本多忠勝としては腹が立ってくるんですよね。俺の家系は家族代々、じいちゃんも父さんもお前のことを守ってきたのに、何をしようとしているんだ。っていう。だから、元康は、こんなところで終わっていい男じゃないし、多くの人があなたに命を懸けているんだ、と。そこを分かってほしい思いでした」と、本多忠勝の思いについてコメントしています。

その一方で、「あのシーンは自分でも涙するとは思ってもいませんでした。思いを魂にどんどん背負い込んでいったら、結果的に自然と涙が出たという感覚です。セリフで書かれていることも、もちろん思っているんですけど、それだけではない何かがついてきた感じはあります。」と撮影時の心境についてもコメントされています。そして、「これからもさまざまなキャラクターが物語を盛り上げていきますし、もちろん戦国最強の武将である本多平八郎忠勝として、僕も盛り上げていけたらと思います。今後もぜひ、殿の「どうする」を見守ってください。」とコメントをされています。

 


「酒井忠次のプロフィール」

  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1527年
  • 死亡年月日:1596年10月28日・享年70歳(病死)
  • 運命の戦い:長篠の戦い

「徳川四天王の筆頭主だった酒井忠次」

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酒井忠次をはじめ、徳川家康には、徳川四天王と呼ばれる4人の実力ある武将がいました。その一角を担っていたのが、酒井忠次と言う武将です。酒井忠次は、もともと徳川家康の父・松平広忠に仕えている武将でした。幼い8歳の徳川家康が駿河、現在の静岡県の今川家へ人質として送られた時、酒井忠次は23歳でした。その時家臣として徳川家康に付き添っている状況でした。徳川家康が人質から解放されて、戦国大名として独立すると、酒井忠次は、徳川家康の大事な戦い全てに参戦しました。とりわけ運命の戦いとされる、1575年の長篠の戦いでは、奇襲作戦でしたが別働隊を率いて武田軍の砦を次々と落とし長篠城、現在の愛知県にいた味方を救い出すという戦果を挙げています。徳川家康が同盟を組んでいた、織田信長からは、酒井忠次の背中には目があるようだと称賛されたと言う逸話もあります。その後、徳川家康の長男の徳川信康が織田信長を裏切ろうとしていると言う噂が持ち上がります。酒井忠次は、徳川家康の使者として織田信長のもとに説明に行きます。しかし、織田信長から厳しい質問を受け、酒井忠次は徳川信康をかばうことができませんでした。このために徳川信康は切腹することになってしまうのでした。この事件以降、酒井忠次は、徳川家康の最も大切な家臣としてあり続けます。そしてかの有名な関ヶ原の戦いの4年前に70歳で病死し武将としての生涯に幕を閉じます。


「運命の闘い、長篠の戦い」

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武田信玄が病死すると、武田信玄の味方だった奥平信昌が裏切って徳川家康についたのでした。

これに激怒した武田信玄の子武田勝頼は、1575年、奥平信昌が立てこもっていた長篠城、現在の愛知県を15,000の兵で取り囲んだ。

徳川家康は8000の兵を率いて応援に向かうのだった。これに加えて、さらに織田信長の30,000人の大群も助けに加わった。

織田信長は、戦国時代、当時最強と言われた武田騎馬隊への対策を立てていた。
長さ2キロメートルにわたる馬防柵を作った。これに加えて、戦国時代の最新兵器鉄砲を入手。3000兆もの鉄砲を構えた鉄砲隊を配置したのだった。さらに徳川家康の家臣である酒井忠次に別働隊を作らせ武田軍の拠点だった砦を攻撃させた。

こうした織田信長による武田騎馬隊への策が練られていたにもかかわらず、武田勝頼は進軍することを決断。もちろん家臣たちは引き上げることを勝頼に勧めましたが、勝頼はこれを断じて無視したのです。そして、なんと突撃を命令したのでした。戦国時代、最強と言われた武田騎馬隊は、次々と鉄砲隊に倒された行多くの優秀な武将が静止することとなったのです。こうして、織田信長の武田騎馬隊に対する戦略が功を奏したのでした。これによって武田勝頼は、命からから甲斐、現在の山梨県へ逃げ帰ったのでした。


「長篠の戦いの酒井忠次の逸話」

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この長篠の戦においては、奇襲攻撃については酒井忠次が発案したともされています。常山紀談の中で、奇襲攻撃は極楽寺山の軍議で酒井忠次が発案したものでしたが、織田信長から「そのような小細工は用いるにあらず」と罵倒され、その軍議では問答無用で却下されています。しかしながら、軍議が終了し将軍たちが退出したのち、織田信長は酒井忠次を密かに呼び出しています。そして、次のように命じたとされています。「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったために、わざと忠次が発案した作戦を却下したが、お前の発案は理にかなっている。最善の作戦と言えよう。作戦の指揮は、お前、酒井忠次が執ることになる。直ちに作戦を実行せよ」。

そして、長篠の戦が終わった後に織田信長は酒井忠次の活躍について「前に目あるのみならず、後にも目あり(酒井忠次については、前だけでなく後ろにも目があるかのような活躍)」と称賛します。

この織田信長の言葉に対して酒井忠次は「さて終に後ろを見たることは之なく候(私は後ろを見たことはありませんでした)」と返答しています。

織田信長は、この酒井忠次の切り返しの言葉に笑い、前後のはかりごとが違わなかったと言おうとして言い過ぎたと弁明したということです。

酒井忠次は織田信長との会話の最後に「仰せの旨、面目あり」といって退出しています。


「徳川家康が戦で、大敗となった三方原の戦いについて」

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三方原の戦いで徳川家康が武田軍に敗れて浜松城、現在の静岡県に逃げて帰ると徳川家康を打って武田軍が浜松城にやってくるのだった。この時。酒井忠次は対抗大きく家流してこれに驚いた。武田軍は何か策があるに違いないと考えて引き返したと言う。この酒井忠次の策により、徳川家康は命拾いし、そしてその後、活躍するのだった。


「大森南朋のプロフィール」

  • 出身地:東京都
  • 生年月日:1972年2月19日
  • 身長:178㎝
  • 血液型:A型
  • 職業:俳優(映画・テレビドラマ・舞台)
  • 活動期間:1993年ー
  • 配偶者:小野ゆり子(2012年ー)
  • 父の俳優・舞踏家の麿赤児、母の桃枝の次男として生まれた。兄は映画監督の大森立嗣さん。妻は女優の小野ゆり子さんです。高校時代は、バンド活動。1993年に映画「サザン・ウィンズ日本編トウキショウゲーム」でデビューされています。2001年、「殺し屋1」で主人公のイチを演じています。

「酒井忠次役を演じる大森南朋さんのコメント」

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2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の酒井忠次役で演じる大森南朋さんが、次のようにコメントされています。古沢さんの脚本はテンポ感もいいですし、僕も非常に面白く読ませていただきました。そこに遜色のないお芝居できるよう、日々頑張っています。酒井忠次を演じるにあたっては、「兄貴分っぽくやるぞ」と自分の偏った考えで構築して演じると、群像劇でのバランスが崩れると思いますので。「劇団家臣団」みたいなものですから。バランスをとって、出るところは出る、引くところは引く。家臣団は全員これに尽きると思います。酒井忠次は、人間っぽくていいなと思います。家臣団や殿とどういう距離間でいたのかという中で、酒井忠次の人柄がにじみ出せたらいいですね。戦国時代も、笑いあり、泣きもあり、踊りもありで皆生きていたはずなので。そこを素直に演じていこうと思います。踊りでいうと、えびすくいは難しかったです。今でも難しいですし、今やってみろと言われて急にフルで出来るかというのも不安になるくらい。でも1年間あるので、来年の今頃には上手に踊れるかな。伝統芸能ではなく、あくまで宴会芸なので、そこを加味していただいて、視聴者の皆さんには優しい目でご覧いただきたいですね。とコメントされています。


「井伊直政のプロフィール」

  • 出身地:遠江(現在の静岡県)
  • 生年月日:1561年2月19日
  • 死亡年月日:1602年2月1日
  • 享年:42歳(病死)
  • 運命の戦い:関ヶ原の戦い

「おんな城主・直虎に育てられた厳しい幼少期」

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井伊直政、武田家から受け継いだ「赤備え」を率いて戦ったことでしられたいますが、井伊直政は1561年2月19日、今川家の家臣である井伊直親の嫡男として遠江国井谷(現在の静岡県)で生まれています。幼名は「虎松」という名でした。そして悲しいことに父の井伊直親は1562年に謀反の嫌疑を受けて今川氏直に殺されたいます。この当時、井伊直政は2歳という年齢でした。そして、女武将の井伊直虎(井伊直盛の娘・次郎法師)に育てられた。その後、15歳の時、鷹狩に出ていた井伊直政は、34歳の徳川家康と出会い、家臣にしてもらったと言うことです。この時、井伊直政(虎松)は、井伊万千代と名を改めています。その後は1582年に井伊万千代から井伊直政と名乗るようになりました。この時、22歳。この時期、井伊直政は「容姿端麗にして心優にやさしければ、家康卿親しく籠愛し給い」と記録に残っているように美男子として有名で、徳川家康が豊臣秀吉に従属する前に秀吉の母・大政所やその侍女たちが井伊直政に惚れ込んだという逸話もあります。


「井伊の赤鬼となった直政」

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1582年に起きた本能寺の変では、徳川家康の伊賀越えに従軍しています。徳川家康の寝ている所へ忍び込んだスパイを討ち取るなど数々の手柄を立て徳川家康に深く信頼される家臣に成長していきます。武田家が滅びた後、徳川家康の命令で武田軍の「赤備え」を引き継いだ。この「赤備え」とは、甲冑や武器を赤色で揃えていた武田軍の最強部隊のことです。井伊直政が率いてからは、1584年の小牧・長久手の戦いで武功を挙げ、名をとどろかせていきます。この時の勇猛果敢な姿から「井伊の赤備え」と呼ばれるようになった。その後の徳川家康の合戦では、いつも大活躍した。井伊直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれて、戦国武将たちから非常に恐れられていました。


「戦国最強と言われた武田軍の赤備えとは」

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武田信玄が率いていた武田軍の赤備えを最初に率いていたのは、「甲山の猛虎」と言われていた武田軍の武将・飯富虎昌です。騎兵のみで編成されていた騎馬部隊で槍働きの武将で組織された朱色で統一した赤備の組織部隊でした。その後、1565年に飯富虎昌が義信事件で切腹し、山県昌景が部隊を引き継ぎました。そして、総勢千騎だった、この赤備えの武田軍が非常に強かったために「赤備え=精鋭」というイメージが諸大名の間で定着していったのでした。


「井伊直政にとって運命の戦いとなった関ヶ原合戦」

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関ヶ原の戦いでは、先陣(最初に攻撃する部隊)は福島正則に決まっていましたが、手柄を立てたかった井伊直政は、偵察中と嘘をついて、福島隊の前に進み、最初に鉄砲発砲して戦いを開始したのです。しかしながら、この井伊直政の突撃に関しては実際には、抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦で戦闘開始は、それに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃とされています。そして、徳川軍が率いる東軍を勝利に導くと言う活躍を示します。関ヶ原の戦の終盤では、島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を100騎程度率いて追撃。しかし、井伊直政の電光石火の如く突撃する追撃に井伊直政の配下が追い付くことができず単騎駆けのような状況だったということです。そして島津義弘の目前まで迫ったものの、島津義弘を討ち取るように命令した際に島津軍の柏木源藤に足を狙撃され落馬してしまっています。井伊直政は、戦いに優れていただけではなく、政治を行う能力も非常に高かい武将でした。関ヶ原の戦いが終わった後、江戸幕府の組織作りなどにも加わりました。西軍の総大将だった毛利輝元との講和交渉役を務め、毛利輝元から今後の御指南役を請う起誠文を送られています。また徳川氏と島津氏の和平交渉を中立ちし外交手腕を発揮するなど、徳川家康を支え続けていました。1602年2月1日に彦根城築城途中に佐和山城で関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで病気になってしまい、それがもとで命を落とします。享年42でした。


「板垣李光人さんのプロフィール」

  • 名前:板垣李光人 いたがきりひと
  • 生年月日:2002年1月28日
  • 出身地:山梨県
  • 身長:165㎝
  • 血液型:AB型
  • 職業:俳優(映画、舞台、ミュージカル、テレビドラマ)
  • 活動期間:2012年ー
  • 2歳からモデル活動を行っておられました。そして、小学5年生のときに第一回スターダストプロモーション芸能1部モデルオーディションに合格したことによって、現在の所属事務所である「スターダストプロモーション」に所属して、俳優やモデルとして活動されています。趣味は、写真や音楽を聴くこと、アニメを観ること、ゲームなど。オタクであることを公言されていますが、好きな作品としては「アイドルマスターSideM」で、Wの蒼井悠介が推しということです。中学生のころは、仮面ライダーシリーズにハマって、仮面ライダー電王のファンだったそうです。好きなアーティストは椎名林檎。特技は水泳、イラストを描くこと。ちなみに名前の「李光人」の由来はドイツ語の「光」を意味する「Licht」です。

「板垣李光人が井伊直政についてコメント」

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2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川四天王の一角を担う井伊直政。その重要な人物を演じるのが、板垣李光人さんです。板垣李光人さんは、井伊直政を演じることについて、浜松城公園のセレモニーの際に次のようにコメントしています。「ドラマでは、まだ井伊直政は登場していないのですが、浜松に来てこれから撮影していくうえでも本当に力をいただきましたし、地元の皆様のご期待に応えられるような井伊直政を演じていきたいと改めて感じました。」とコメントされています。また「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」がオープンしたことについて「大河ドラマ館には、徳川家康に関連したドラマで実際に使われている衣装などが展示されているなど、この作品を観ていただいた方にとって、たまらない展示になっていると思います。」とコメントされています。


「榊原康政のプロフィール」

  • 出身地:三河、現在の愛知県
  • 生年月日:1548年誕生日は不明
  • 死亡年月日:1606年6月19日
  • 享年:59歳(病死)
  • 運命の戦い:姉川の戦い
  • 徳川家康にも厳しく注意する。真面目な家臣。榊原康政は、徳川四天王の一鶴を担う人物。本多忠勝と同い年で、少年時代より徳川家康に使えていた戦いに優れ、徳川家康から称えられて名前に徳川家康の康の字をもらっている。姉川の戦いでは、浅井・朝倉連合軍を横から攻めて崩し、小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀次(豊臣、秀吉の甥)の軍勢を別働隊を率いて、奇襲攻撃するなど合戦で数々の手柄を挙げた人物です。

「幼いころから文武両道だった榊原康政」

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1548年に榊原長政の次男として三河国上野郷(愛知県豊田市上郷町)に生まれています。幼児期から勉学に励み、書を読んで、字も上手でエリートだったようです。13歳の時に松平元康(徳川家康)に見いだされて、小姓となっています。これが運命の出会いとなり、三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし徳川家康から武功を称されて「康」の字を与えられたということです。ここから榊原康政は大躍進していきます。

1566年に19歳で元服。同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属されています。その後、旗本部隊の将として活躍することになりますが、とりわけ姉川の戦いから注目されます。

1570年、姉川の戦いで朝倉軍に側面からの攻撃を加え武功を挙げています。

1572年の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康が撤退するときに家康が浜松城に入らずに昼間のうちに浜松城に入れなかった味方の兵を集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ動揺して逃げ惑う武田軍を混乱させて浜松城に入ったという奇想天外な作戦を実行しています。

1575年、長篠の戦いにおいては徳川本陣に向かって突撃してくる内藤正豊に対して、榊原康政は本多忠勝と共に戦い徳川家康を守り抜く活躍をしています。

1581年の高天神城の戦いでは、先陣を務めています。

1582年の本能寺の変の際には、徳川家康の伊賀越えに同行し守り抜いています。

1600年の関ヶ原の戦いでは、主力の徳川秀忠の軍の軍監として従軍しています。そして、中山道を辿り美濃国を目指していましたが、荒天で徳川家康の進発命令を携えた使者が遅れてしまい、信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸への攻撃を中止し、美濃に向かうことにします。しかし、美濃に向かっても荒天は続き、徳川秀忠と共に関ヶ原の戦い(上田合戦)に遅れて到着してしまいます。このことに徳川家康は、徳川秀忠に大激怒。しかし、榊原康政が「我が子を待たずに戦っておいて遅れたと責めるのですか」と徳川家康を厳しく注意した。これによって徳川家康の怒りは収まり事なきを得たということです。さらに徳川秀忠には上田城攻撃の中止を進言しています。


「姉川の戦いについて」

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1570年4月、織田信長が約束を無視して、朝倉義景を攻めたことを知った、浅井長政は織田信長との同盟を捨て織田信長へ攻撃を開始した。絶体絶命の危機を逃れた、織田信長は、浅井長政の裏切りを許さなかった。その2ヶ月後、織田信長は浅井長政のいる小谷城(現在の滋賀県)へ20,000人の兵士を率いて侵攻した。そこへ織田信長と同盟を結んでいる。徳川家康の軍勢約5000人が駆けつけた朝倉義景は、約8000人の兵士を浅井長政の応援に送った。織田、徳川軍と浅井・朝倉軍は、姉川(滋賀県)を挟んで睨みあっていた。しかし、遂に激しい戦闘が始まった。浅井・朝倉軍が縦に伸びて散らばっていることに気づいた徳川家康は、家臣の榊原康政に敵の横側から閉めろと命令した。この作戦が成功し、浅井・朝倉軍は総崩れとなった。両軍とも優秀な武将を多く失った。姉川戦死者で血に染まったと言う。

姉川の戦いの流れ

1→織田信長が小谷城へ進軍する。織田信長は、20,000人の兵士を引き連れて岐阜城を出発。浅井長政の居城である小谷城を目指すのであった。

2→徳川家康が参加する。徳川家康は、兵士を率いて姉川(滋賀県)の南岸に到着する。一方の浅井長政は、小谷城から出撃し、朝倉義景から送られた兵士と一緒に姉川の北岸に到着。

3→榊原康政が朝倉郡を攻撃する。
姉川を挟んで両軍が激突。徳川軍の榊原康政が朝倉郡の横側から攻撃を始めると、朝倉軍は総崩れとなり、織田徳川軍が勝利をした。

榊原康政は、この姉川の戦いのときに第二陣に属し、隊を真一文字に進軍させ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示したということです。酒井忠次の隊を追い越す勢いだったため、先鋒隊だった酒井忠次の隊も慌てて功を競ったという逸話もあります。この戦いについて徳川家康は、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」と褒められたということです。


「榊原康政についての逸話・伝説」

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徳川家康の息子、徳川秀忠が関ヶ原の戦いに間に合わなかったとき、徳川家康は起こって、徳川秀忠に会おうとしなかった。この時、榊原康政は「我が子を待たずに戦っておいて遅れたと責めるのですか」と徳川家康を厳しく注意した。江戸時代、幕府の政治にも参加したが、「年老いた家臣が権力をにぎれば国は滅びる」と言って、すぐに居城の館林城、現在の群馬県に帰った。

豊臣秀吉は、榊原康政の首に十万石をかけたと言う。小牧長久手の戦いの時、榊原康政は豊臣軍に向けて「織田信長の家臣だった豊臣秀吉は、その音を忘れて織田家を乗っ取ろうとしている。」という文章を書いた。それを読んだ豊臣秀吉は、激しく、怒って、榊原康政を殺したものに十万石の褒美を出すと述べたと言うことです。

井伊直政と仲の良い親友だったという記録もあり、その記録の中には「大御所(徳川家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。また「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くはない」とお互いの信頼関係を垣間見ることができます。


「榊原康政の甲冑・武力」

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「榊原康政は武勇で本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は本多忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」という記録があります。

榊原康政の甲冑は、「黒糸威二枚胴具足(くろいとおどしにまいどうぐそく)」と「紺糸威南蛮胴具足(こんいとおどしなんばんどうぐそく)」です。

黒糸威二枚胴具足:金箔を施した大きな「三鈷剣(さんこけん)」の前立が力強い「鉄錆地六十間(てつさびじろくじゅうにけん)」の筋兜となっています。黒漆塗の鉄板の左脇に蝶番を取り付けた二枚胴、黒漆塗の板物を黒糸で「素懸威(すがけおどし)」にした「草摺(くさずり)」の構成となっています。兜の吹返(ふきかえし)や胴の正面と杏葉(ぎょうよう)という型の鉄板には、金箔で榊原家の家紋である源氏車紋が配してあります。兜の前立の三鈷剣は不動明王を表す祭神具のひとつとされています。

紺糸威南蛮胴具足:西洋の甲冑を模して南蛮貿易によって日本で作られた甲冑です。兜には、錣(しころ)とヤクの毛が取り付けられ正面と左右には榊原の家紋の源氏車紋が施されています。南蛮胴は正面の中央部分が鋭角的に盛り上がっています。このために鉄砲に対して防御力は高い作りとなっていますが、重量が増し高価なものとなりました。徳川家康が南蛮胴を愛用していて、関ヶ原の戦いの前に徳川家康から榊原康政は紺糸威南蛮胴具足を拝領したとされています。


「杉野遥亮さんのプロフィール」

  • 名前:杉野遥亮 すぎのようすけ
  • 出身地:千葉県八千代市
  • 身長:185㎝
  • 血液型:O型
  • 職業:俳優・ファッションモデル(雑誌モデル・テレビドラマ・映画・CM)
  • 活動期間:2016年ー
  • 杉野遥亮さんは、千葉県立佐倉高校を卒業されていますが、幼いころから高校卒業までバスケットボールをされていたスポーツ万能な俳優さんです。2015年頃は法政大学に在学されていましたが、その後は中退されています。2015年の第12回FINEBOYS専属モデルオーディションでグランプリを獲得されて芸能界にてデビューされています。実は、事務所の先輩である松坂桃李さんに憧れてオーディションを受けられたことをラジオで語っておられます。aikoさんのシングル「プラマイ」のMVに出演されました。2016年には、ドラマ「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」に出演されて俳優デビューされました。2017年はCM「新潟米新之助「お待たせしました。新之助です。」に出演しイメージキャラクターに起用されています。さらに2017年は映画「キセキーあの日のソビトー」に出演して、劇中でGReeeeNの前身となるユニットであるグリーンボーイズ名義でCDデビューもされました。2018年に地域限定放送で九州朝日放送が制作・放送しているドラマ「福岡恋愛白書13」においてドラマ初主演されています。2019年にgo!go!vanillasのアルバム「THE WORLD」より「パラノーマルワンダーワールド」のMVに出演されました。

「杉野遥亮さんが榊原康政についてコメント」

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「正直、時代劇というものに苦手意識があった。と撮影の感想を述べておられます。

大河ドラマについて「俳優という仕事をやっているからには、一度は出たいと思う、そういう作品。自分は正直、時代出来というものに苦手意識があったんです。歴史に詳しくないので、台本を読むのにすら苦労する。それでもドラマの台本を読んだときは、すごく面白いと思えました。」とコメントされています。また「こういうふうに歴史に触れられたら、もっと歴史を好きになれただろうな、と思うような台本ですし、いただいた企画書もすごくキラキラしていて楽しそうだったんです。その世界の一部になれるならうれしいなという気持ちで、引き受けさせていただきました。」さらに撮影現場に足を踏み入れ、「みんなが大河ドラマに出たいと思う理由が、やっと分かりました。」とも述べておられます。撮影現場については、「僕は切り替えが下手で、不器用なところもあるので、わりとしゃべらずにいるほうですけれど、ふとしたときにコミュニケーションをとれるんです。撮影の合間、殿(松本潤さん)が写真を撮ってくれたり、そういう小さな時間で、気持ちが楽になる瞬間があります。」とコメントされています。

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管理人:TMM

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未来に残したい、繋げたいをテーマに日々を過ごすことに夢中。そのテーマに自然界、歴史、科学、教育など、あらゆる方面から未来と過去を行き来出来たら、現在どうなっているか、これから先どうなるのか気になることが多く、今更ながら様々な分野を勉強中。