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【吉原光夫】鬼柴田と恐れられ信長に最も信頼した柴田勝家役について
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最高の家臣にして勇猛果敢な武将。最後まで織田信長を支えた忠実だった武将。柴田勝家は、織田信長の家臣の中で、最も広い領地を支配した武将でした。戦いの強さから「鬼柴田」や先頭に立って突撃することから「かかれ柴田」などのニックネームがつけられていました。水が不足していた時、水瓶を叩き割って決死の覚悟を見せたことから、「瓶割り柴田」とも呼ばれていました。そして、織田信長の死後には姻戚関係までも結び忠誠を尽くしました。豊臣秀吉と天下を獲りあった柴田勝家とは一体何者だったのか。今回の「TimeMachineMuseum」では、柴田勝家に注目します。
「柴田勝家のプロフィール」
- 出身地:尾張(現在の愛知県)
- 生年月日:1522年
- 死亡年月日:1583年4月24日
- 享年:62 (自殺)
- 運命の戦い:賤ヶ岳の戦い
「鬼柴田、勝家の誕生と躍進」
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1522年、尾張国、愛知郡上社村、現在の愛知県名古屋市名東区で生まれる。若い頃から、織田、信秀の家臣として仕え、尾張国、愛知郡上社村を領したということです。そして、織田信長が家族継承したときには、織田家の重鎮となっていました。1551年に織田信秀が死去すると、その子、織田信勝に家老として仕えました。
1552年の尾張下四群を支配する守護代で清州城主である織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老の酒井甚介を討ちとり、翌年には清州城攻めで大将格で出陣して、30騎を討ち、武功を挙げました。
1556年8月に柴田勝家は、織田信長を排除するために1000人を率いて戦うものの、織田信長との戦いに敗れて降伏しました。この時以降、織田信長の実力を認め、稲生の敗戦後、織田信勝が新参の津々木蔵人を重用して柴田勝家を軽んじるようになりました。そのため、織田信行を見限ります。
1557年、織田信勝がまたも、織田信長の排除を目論んで、謀反の画策をした際には、織田信長に密告して謀反を失敗させ、画策した織田信勝を殺害します。織田信勝の死後、罪を許されて織田信長の家臣となりました。しかし、織田信長に逆らった経緯があるために、織田信長の尾張統一戦、桶狭間の戦い、実斎藤道三を攻めるための戦いでは用いられる事はありませんでした。
1568年の上洛作戦で織田信長の4人の戦法の武将として参戦します。
1569年1月三好3人衆による本圀寺の変では、織田信長と再度、京に入ります。8月には北畠氏との戦に参加しています。
1570年4月浅井長政が織田信長から離反すると、5月には六角義賢明が琵琶湖南岸に進出し、岐阜への道を断ちます。そして織田信長から柴田勝家は、長光寺城に配属され六角軍と戦闘になります。また6月には浅井軍、朝倉軍との姉川の戦いに従軍します。
1570年8月から9月の野田城福島城の戦いで三好3人衆が四国から攻め上り、総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し混戦なります。そして、朝倉、浅井連合軍が30,000の大軍で山科、醍醐を焼きつつ、京都将軍御所を目指して進軍します。柴田勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻ります。織田信長の総軍も野田、福島上から退却し、京都に戻り志賀の陣人となります。織田信長は、足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で、浅井軍、朝倉軍との和睦に持ち込みます。
1571年5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧します。退却する際、柴田勝家の隊は殿を務めましたが、大河と山に挟まれた狙いやすい場所で一揆勢がおそいかかり、傷を負い柴田勝家は旗指物まで奪われてしまいます。しかし9月の比叡山焼き討ちでは殺戮に加わっています。
1573年2月織田信長と対立した将軍の足利義昭が石山本願寺と今樫田の砦に兵をいれます。これに対して柴田勝家を含めた4人の武将が攻撃して、これらを陥落させます。織田信長は、将軍を重んじ、足利義昭との講和交渉を進めますが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻してしまいます。それで4月に織田信長、自ら出陣して足利義昭への脅しのために上京に放火させた際は、柴田勝家も参加しています。7月になると、足利義昭は槙島城に立て篭もります。その後、柴田勝家は、自分も加わった70,000と言う兵力で、足利義光が籠る槙島城を総攻撃し降伏させました。これによって、足利義昭は追放され、事実上、室町幕府は滅びてしまいます。足利義昭は、毛利元就に保護されます。そして足利義昭は、信長包囲網が敷かれると織田軍の有力武将として、近江国、摂津国など各地を転戦していきます。
1573年8月、一乗谷城の戦いが勃発。織田信長の軍は総動員し、朝倉氏を滅ぼします。柴田勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参戦しましたが、その際の先鋒は羽柴秀吉でした。
1573年9月に2度目の長島攻めに参戦しました。そして桑名の西別所城、酒井城を陥落させます。
1574年に多聞山城の留守番役に柴田勝家が入ります。そして7月、3度目の最終戦となる長島攻めに参戦。兵力、70,000の大軍で兵糧攻めで、助命を約束に開城させます。そして、騙し討ちで殲滅しています。
1575年には、高屋城の戦い、長篠の戦いにも参戦しています。
1576年、柴田勝家は、北陸方面軍司令官に任命され、前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられています。
「主君の信長死後も忠誠を尽くした柴田勝家」
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1577年7月、越後国の上杉謙信が加賀国まで侵攻してきます。この時、柴田勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突。仲違いし、羽柴秀吉は織田信長の許可を得ることもなく戦線を離脱。これによって足並みが乱れてしまいます。柴田勝言えば、七尾城の救援に向かうが、間に合わずに七尾城が陥落してしまいます。そのため周辺の拠点に放火しつつ退却します。9月23日退却中に手取川で上杉軍の襲撃を受けます。
1578年に上杉謙信が死去すると、織田信忠軍の将である斎藤利治が越中中部から上杉軍を攻撃。
1580年3月に織田信長と東本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、柴田勝家は、一向一揆の司令塔である金沢御堂を攻撃して滅ぼします。その後、北加賀、越中境まで侵攻します。1580年11月一向一揆を制圧して、ついに加賀を平定します。さらに能登国の越中国にも侵攻しています。この頃、佐久間信盛が失脚して、名実ともに織田家の筆頭家老に柴田勝家は位置することになりました。
1582年3月から越中国の魚津城、松倉城を攻囲。しかし6月2日に本能寺の変があって、織田信長が死去します。これを知らないまま、6月3日に魚津城は陥落します。本能寺の変の事件を知り、6日の夜から直ちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻ります。その後、清州会議が行われ、各将の承諾を得て、柴田勝家は、織田信長の妹、お市の方と結婚しています。
1583年、賤ヶ岳の戦いが勃発。3月12日柴田勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った豊臣秀吉と対峙します。4月16日豊臣秀吉に降伏した織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵なんて読むん位し、豊臣秀吉は岐阜へ向かい、柴田勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めます。しかし美濃大返しをした豊臣秀吉に破れてしまいます。
1583年4月16日の北ノ庄の戦いで、北ノ庄城において、妻のお市の方と自害しました。享年:62。
「柴田勝家の人物像とは」
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キリスト教、宣教者、ルイス•フロイスは、柴田、勝家について次のように評価しています。
「織田信長の重立ちたる将軍二人中の一人」
「甚だ有名な武将であり、一生を軍事に費やした人」
「織田信長の時代の日本で最も有名な武将であり、果敢な人物でした」
「柴田勝家は禅宗であるが、他の宗旨を憎みませんでした」
「ルイス・フロイスたちの越前でのキリスト教の布教については、一切妨害はしませんでしたが、手助けもしない教えが広まるかどうかは宣教師たちの手柄次第と述べたということです」
「武骨の性格で、その秀でた武勇から、鬼柴田と呼ばれ、柴田勝家は、戦場における突進力では、随一という意味で、かかれ柴田と表されています」
「運命の戦いとなった賤ヶ岳の戦い」
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1582年、織田信長の跡継ぎをめぐり、会議が開かれた。これは清洲会議と言われる。織田信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と信長の孫である三法師を推す、豊臣秀吉が争った。跡継ぎが三法師に決まると、両者の対立が激しくなり、豊臣秀吉は織田信孝を攻撃して降伏させました。このことに憤った柴田勝家は、賤ヶ岳で、豊臣秀吉に戦いを挑む。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の南側に陣を構えたが降伏したはずの織田信孝が挙兵を起こした。豊臣秀吉が一部の軍を残して岐阜に戻ったすきに、柴田勝家の軍は、豊臣軍を攻めた。このことを予想していた豊臣秀吉は岐阜から52キロの道のりをわずか5時間で引き返し柴田勝家の軍に襲いかかった。さらに前田利家の軍が戦場を離れると柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北ノ庄城へ逃げた。
「最後の聖戦となった北ノ庄城の戦い」
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北ノ庄城の戦い:柴田勝家が賤ヶ岳から逃げ戻った、北ノ庄城は、柴田勝家が築いた、巨大な城で天守が高くそびえ立っていた。賤ヶ岳の戦いで勝手に柴田勝家の軍から離れた前田利家は豊臣秀吉と会って味方になっていた。前田利家を加えた数万の豊臣秀吉の軍は、北ノ庄城を攻囲した。豊臣秀吉は、この戦いが終われば、日本は平和になると考え、多くの戦死者が出たとしても、思い切って攻撃することを決意した。こうして、両軍の激しい鉄砲の打ち合いが始まりましたが、柴田勝家は負けることを覚悟していたということです。やがて天守に火がつくと、柴田勝家は、妻と娘たちを逃がそうとしました。妻は、織田信長の妹で、以前は浅井長政の妻だったお市の方です。お市の方は3人の娘を逃した後、私もお供いたします。と柴田勝家に微笑み、2人は燃え盛る炎の中で自ら命を絶ったのでした。
「吉原光夫さんのプロフィール」
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- 出身地:東京都
- 生年月日:1978年9月22日
- 身長:186㎝
- 職業:俳優・演出家(舞台)
- 活動期間:1999年ー
- 小学校のときにバスケットボールを始め、バスケットボール選手になることを夢にスポーツ推薦で高校に進学されています。大学進学時にバスケットボール推薦で不合格となって生まれて初めて挫折を味わい、「専門学校だけは面倒見てやる」という父の言葉に高校卒業後に日本工学院八王子専門学校演劇俳優科(現在:クリエイターズカレッジ声優・俳優科)に入学されています。元劇団四季の先生の授業で見せられたミュージカル映画の「ジーザス・クライスト・スーパースター」冒頭のユダが岩の上で歌うシーンに衝撃を受けて、劇団四季が上演権を保有していることを知って劇団四季への入団を決意。1999年にオーディションで一発合格して専門学校卒業後に劇団四季付属研究所に入所されました。入所初年度より「ジーザス・クライスト・スーパースター」で舞台に立って、その後も数々の舞台に出演されました。2007年に劇団四季を退団。2009年に元劇団四季のメンバーと共にArtistCompany響人(ひびきびと)を立ち上げ、「響人UNDERGROUND」公演では演出も手掛けておられます。2020年NHK連速テレビ小説「エール」でテレビドラマに初出演されました。
妻は、元宝塚歌劇団宙組の娘役で女優・歌手の和音美桜さん。2016年に結婚され、2017年3月13日に結婚を公表されました。2019年7月26日に第一子が誕生されています。
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